豊前 長野城


お城のデータ
所在地 福岡県北九州市小倉南区長野
遺 構 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群
形 式 山城 築城者: 長野氏 築城年代: 不明


見 ど こ ろ
( 一の曲輪群の土塁 )
( 二の曲輪群畝状竪堀 )
 長野城は、東九州道長野トンネルの上に位置する城山に築かれている。長野緑地公園から城山まで林道が通じているが、随所で土砂崩れのため現在は通行止めとなっているが、徒歩なら通行することは可能だ。

 長野城は、城山山頂部に一の曲輪群を配置して、北に向かって馬蹄形に伸びた尾根筋に二の曲輪群と三の曲輪群からなる縄張りとなっている。

 馬蹄形の尾根上には要所要所に堀切が設けられ、二の曲輪群・三の曲輪群から主郭の一の曲輪群への防備の強化を図っている。中でも二の曲輪南側には三重の堀切があり見応えがある。

 長野城のもう一つの見どころは、馬蹄形の尾根の外側斜面全体に張り巡らされた畝状竪堀群だ。資料に拠ればその数250条近くもあるとか。畝状竪堀群は北九州の山城の特徴の一つだが、よくもここまで掘ったものだと驚かされる。特に、一の曲輪群の南側は二段に渡って畝状竪堀群が構築されている念の入りようだ。


歴     史
( 二の曲輪群三重堀切の一つ )
( 三の曲輪群の堀切 )
 長野城は、築城年代は定かではないが長野氏によって築かれた。長野氏の自出については治承5年に中原助光が地頭に任じられ長野氏を称したとする説が有力。また、平時盛の六男康盛が豊前国司となり長野氏を称したとも云われている。

 応永6年、長野義種は大内盛見に攻められ降伏し、以後長野氏は長野城を本拠として大内氏に従っていた。

 大内氏滅亡後、豊後大友氏と防長の毛利氏と豊前の覇権争いの中、永禄8年には大友氏によって長野城を攻められた長野氏は大友氏に降った。

 永禄11年には毛利氏によって攻められ長野氏は壊滅状態となった。その後、天正15年の秀吉の九州征伐後に長野氏は小早川氏に従って筑前へと移り、長野城は廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR鹿児島本線小倉〜バス/上横代
 車 : 九州道小倉東IC〜国道10号線
駐車場: なし。


ひとくち MEMO
曲輪群の斜面にびっしりと約250条もの畝状竪堀が構築されたお城。

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