下野 神田城


お城のデータ
所在地 栃木県那須郡那珂川町三輪字要害
遺 構 曲輪、土塁、空堀
形 式 居館 築城者: 須藤貞信 築城年代: 天治2年


見 ど こ ろ
 神田城は、南北に長い長方形をした単郭式の典型的な居館だ。現在の城内は水田となっていて、西側は宅地となっている。

 鎌倉時代には廃城となった城が、今もその遺構が残っているのには驚かされる。周囲に堀と土塁を廻らし、土塁は西側を除いてほぼ原形を留めているのだ。大手を南側に開き、高々と築かれた土塁、特に北側の土塁は見応えがある。更に北側と南側には水堀の一部が今も残っている。余談だが、源平合戦の屋島の戦いで舟に掲げられた扇の的を射抜いた那須与一宗隆は、那須資隆の十一男でこの城で生まれ育ったとか。 


歴     史
 神田城は、天治2年(諸説あり)に那須氏の始祖須藤貞信によって築かれ、那須氏初期歴代の居城となった。伝承によれば、貞信が八溝山中に潜む岩嶽丸討伐の功により那須郡司に任じられ、三和の庄に築城したと云われている。 

 貞信−資通−資満−資清−資房−宗資−資隆と那須氏は続くが、資房・宗資の代頃から那須氏を称した。宗資は、平治の乱に源氏に従って敗れ甲斐国に逃れ、その後那須に戻るが、稲積城を築いて居城を移す。子の資隆も高館城を築いて移り、神田城は廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR烏山線烏山駅〜バス/小川原
 車 : 東北道矢板IC〜県道74号線〜国道293号線
駐車場: なし


ひとくち MEMO
屋島の戦いで舟に掲げられた扇の的を射抜いた那須与一宗隆の生まれたお城。

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