近江 歓喜寺城


お城のデータ
所在地 滋賀県大津市大物
遺 構 曲輪、石垣、土塁、堀切
形 式 城郭寺院 築城者: 観喜寺 築城年代: 戦国時代


見 ど こ ろ
( 二の曲輪南側の堀切 )
( 三の曲輪内側の石垣 )
( 四の曲輪東面の石垣 )
( 四の曲輪南側の堀切 )
 歓喜寺城は、大物地区の西側に連なる比良山系の支尾根に築かれている。麓から一車線ながら舗装された林道が薬師堂まで通じている。

 歓喜寺城は、城館調査報告書等の資料では「歓喜寺の遺構」として紹介されている。あくまでも寺院が城郭化したので「歓喜寺城」とは表記しないのだろう。しかし、実態は紛れもない「城」だ。

 歓喜寺城は、薬師堂が建つ一帯が歓喜寺の本堂が建っていた場所であろうか。この薬師堂の建つ本堂跡を頂点として、林道の西側にかつては歓喜寺の僧坊が南北に建ち並んでしたのであろう。この僧坊を利用して城郭化したのが歓喜寺城だ。

 縄張りは、薬師堂の西側に隣接した一の曲輪から南に向けて五の曲輪まで方形の曲輪が連郭式に配され、二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪・五の曲輪の間には堀切が3条掘られている。

 どの曲輪も東側に虎口が開かれ、周囲には土塁が築かれている。特に三の曲輪は、北側が尾根を掘り込んだ土塁(北側には堀切)と内側に石積みを伴った土塁が囲繞し、東と西側にそれぞれ虎口が設けられ、5つの曲輪の中で最も手厚い防御が施された曲輪となっている。

 現在の林道建設に伴い、各曲輪とも東側が削られているが、本来東側には本堂への参道があり、各曲輪の連絡路となっていたと考えられる。また、西側にも虎口が開かれていることから西側の谷筋にも連絡路があったのだろう。

 五の曲輪の南側にも削平地が散在している。これらの南の曲輪群にも石垣を用いた虎口や曲輪の北側と南側に高々と積まれた石垣の遺構もあり、こちらの遺構も見逃せない。これらの遺構は西側の谷筋にある万人講常夜灯から谷筋に沿って登る参道(登城道)に関連した防備なのであろうか。


歴     史
( 南曲輪群北面の石垣 )
( 南曲輪群南面の石垣 )
( 南曲輪南側群の虎口 )
 歓喜寺は、延暦年間に最澄によって建立されたと伝えられている。弘安年間には延暦寺の荘園であった比良荘を代表する寺院であった。しかし、室町時代中期になると寺勢が衰えて、永享4年には歓喜寺西上坊相伝の私領を売却したことが古文書に記録されている。

 歓喜寺は、戦国時代に城郭化されたと考えられているが、詳細なことは定かではない。元亀年間に織田信長との「元亀の兵乱」に対処するために城郭化されたとする説が有力である。しかし、信長の侵攻以前から延暦寺をはじめとする近江国内の寺院が防御施設を構築していたとする説もある。

 元亀元年、織田信長は対立する朝倉義景の領国越前へと侵攻するが、義弟浅井長政が信長を裏切り朝倉方に与したため、越前からの撤退を余儀なくされた。この金ケ崎の戦いから北近江から高島・志賀を舞台とする信長と朝倉・浅井連合軍による「元亀の兵乱」が始まる。

 元亀元年9月、朝倉・浅井連合軍は京に向けて琵琶湖西岸を南下して「志賀の陣」が始まる。比叡山延暦寺は朝倉・浅井方に与して信長と対峙する。2ヶ月に及ぶ比叡山での籠城戦の末、朝廷の斡旋により両軍の講和が成立した。

 元亀2年9月、織田信長は前年に朝倉・浅井方に与して信長に敵対した「比叡山焼き討ち」が行われ、延暦寺・日吉大社は消滅し寺領・社領は没収されてしまった。歓喜寺は、元亀3年に兵火により焼失したとの伝承があり、織田勢による比叡山焼き討ち後の掃討戦により攻められたと考えられる。その後、歓喜寺は文禄年間に薬師堂(現存)が建立された。


お城へのアクセス
鉄 道: JR湖西線志賀駅〜徒歩約45分(登城口)
 車 : 名神高速京都東IC〜国道161号線(湖西道路)
駐車場: なし。(薬師堂境内に駐車可能)


ひとくち MEMO
天台宗の古刹天寧山歓喜寺が城郭化したお城。

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