お城のデータ | |||||
所在地: | 山口県山口市上宇野令字高嶺 | ||||
遺 構: | 曲輪、石垣、井戸 | ||||
形 式: | 山城 | 築城者: | 大内義長 | 築城年代: | 弘治3年 |
見 ど こ ろ | |||
高嶺城は、尾根筋を削平して曲輪が配置された連郭式の縄張りだ。尾根筋には比較的広く削平された曲輪群続き、最頂部には「砦」と称する曲輪がある。 頂部曲輪(砦)は、周囲には石垣が築かれ、この城のもっとも防備を施された「最後の砦」とも云える曲輪だ。一国一城令による廃城時の破却の様子も窺い知る事も出来て、中世城郭を満喫することが出来た。 |
歴 史 | |||||
弘治元年、毛利元就は厳島の合戦で陶隆房(晴賢)を敗死させると、周防へ攻め入り陶氏の勢力を駆逐した。これに対して大内義長は急遽高嶺に築城、未完のまま内藤隆世と共に籠城した。毛利勢の攻撃は迅速、また内応者も多数あり、大内義長は長門勝山城へとの逃れ、その後長府長福寺にて自刃した。 永禄12年、大友義鎮の支援を受けた大内輝弘が秋穂浦から上陸し、高嶺城を囲んだ。毛利氏の城番市川経好は筑前立花城攻めに出陣して留守であったが、留守部隊がよく防戦、大内輝弘は高嶺城を落とすことが出来ず、筑前より戻った毛利勢に破れ周防茶臼山にて自刃した。 高嶺城は、その後市川経好、柳沢元政、佐世元嘉らが城番となったが、元和の一国一城令により廃城となった。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR山口線山口駅〜バス/県庁前 |
車 : | 中国道山口IC〜国道262号線〜国道9号線/県庁前 |
駐車場: | テレビ中継所前に駐車スペース(2〜3台程度)あり。 |
ひとくち MEMO | ||||||
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