上野 金山城


お城のデータ
所在地 群馬県太田市金山町本丸
遺 構 曲輪、土塁、石垣、堀切、竪堀、井戸
形 式 山城 築城者: 岩松家純 築城年代: 文明元年


見 ど こ ろ
 金山城は、足尾山地南端部に位置する独立丘陵金山の山頂部を中心に放射線状に伸びる尾根筋を利用して築かれ、時代と共に四度の拡張普請が行われ金山全山を城域化した巨大な城となっている。

 金山城の縄張りは、金山山頂部にある新田神社境内となっている一帯が実城(本丸)、大手筋の谷頭を土塁で止めて貯水池である日ノ池を中心にコの字に取り囲むように北から二の丸・三の丸・御台所曲輪・南曲輪を配し、大手を西に向けて開いている。

 大手口前には大堀切ともう一つの貯水池月ノ池があり、西の尾根筋に馬場曲輪・馬場下・物見台・西櫓台と尾根上に曲輪が並び、それぞれの曲輪が深い堀切や竪堀で区切られ、要所に石垣で防備を構えた虎口が設けられていた。

 現在、駐車場にもなっている一帯が西城、更に約100m西に見附出丸が配置され、整備された土塁や石積み、虎口の遺構などを見ることができる。一方、実城から北の尾根筋の北裏堀切を隔て北城、南曲輪から東へ東櫓台、南へ鍛冶曲輪、大手筋の谷の東側には北条氏が整備したとされる八王子山砦が配置ている。

 現在も発掘調査に基づいて整備事業が進められ、金山城の中核部分が復元されて中世から戦国時代の城の姿を今に見ることができる。更に、尾根筋のハイキングコースを辿れば、未だ未整備状態だが幾つもの曲輪や堀切などの遺構を見ることができる。

 金山城は、関東では珍しく石垣が多用された中世城郭だ。西城を経て大手口へ登り来れば、正面には高々と築かれた石垣、かつてはその上に建てられていたであろう城門や城壁が行く手に立ち塞がる。攻め寄せる敵兵を幾度となく撃退したのも納得がいく。機会があれば、もう一度訪れてみたい一城だ。


歴     史
 金山城は、文明元年に岩松家純によって築かれた。家純の父岩松満純は、応永23年の上杉禅秀の乱に禅秀に与して翌年に鎌倉公方足利持氏の追討を受けて処刑された。

 満純の死後、嫡男家純(礼部家)は幼少のため家督を継げず家督は従兄弟の持国(京兆家)が継承した。永享の乱・享徳の大乱で幕府方に与した家純は、寛正2年に京兆家の持国・成兼父子を滅ぼして岩松氏を統一し、文明元年に新田荘へ入り重臣横瀬国繁に命じて金山城を築かせた。

 明応3年に岩松家純が死去、その後岩松氏は家純−明純−尚純−昌純−氏純と続くが、家純によって代官に任じられた横瀬氏は次第に主家をも凌ぐ勢力を築いた。享禄2年には岩松昌純は横瀬泰繁を排除しようとしたが逆に泰繁に反撃され昌純は討たれ、岩松氏の没落が決定的となった。

 下克上を果たした横瀬氏は、泰繁の子成繁の代に新田氏宗家が相伝した新田荘由良郷に因んで由良氏と改姓して戦国大名へと脱皮し全盛期を築いた。

 戦国時代の上野国は、越後から南下する上杉氏、信濃から東進する武田氏、武蔵を北上する相模の北条氏と有力戦国大名の抗争の狭間にあった。金山城主由良成繁は、上杉氏や北条氏と従属関係を保ちながら生き残りを図った。その中で金山城は幾度も攻められたが落城することなくその堅固さを誇った。

 天正12年、北条氏直の謀略で由良成繁の子国繁と長尾顕長兄弟が拘束され、金山城を明け渡しを迫られた。抵抗を試みたが国繁は金山城を北条氏に明け渡し桐生城へと移った。

 北条氏は、高山定重・宇津木氏久を城番とし、天正15年には清水正次を城主として金山城の修築を行い防備を固めさせた。天正18年の豊臣秀吉の小田原征伐に際しては北条氏は金山城を放棄し、豊臣方の前田利家に接収され廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: 東武鉄道伊勢崎線太田駅〜タクシー約15分(山上の駐車場まで)
 車 : 北関東道太田桐生IC〜国道122号線〜国道407号線〜県道321号線
駐車場: 金山城の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
関東では珍しく石垣を多用した中世城郭。

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