陸前 名生城


お城のデータ
所在地 宮城県大崎市古川大崎字城内
遺 構 曲輪、土塁、空堀
形 式 平城 築城者: 大崎家兼 築城年代: 観応2年


見 ど こ ろ
 名生城は、奈良時代より大崎地方を治めた名生官衙遺跡(国指定)とほぼ城域が重なり、この地が奈良時代から戦国時代まで大崎地方の政治の中心であった。

 名生城の縄張りは、台地の上に七つの曲輪を堀で囲繞した縄張りとなっている。本丸は、大館と呼ばれ名生官衙遺跡の案内板がある一帯で、現在は宅地と畑地となっていた。

 浄泉院の境内が北館、山門南側の林が内館。内館の西面と東面を囲む堀と土塁の一部が残っていて、この辺りが一番城の遺構が良く残っている。集落内に寺への道標があり、ここに名生城の案内板が立てられ、背後の民家敷地には土塁が残っていた。


歴     史
 名生城は、観応2年に大崎家兼よって築かれた。足利泰氏の長子家氏が陸奥斯波郡を領して斯波氏を称し、斯波高経の弟家兼が、奥州探題に任じられ、師山城へ入り、後名生城へ移り、大崎氏を称した。家兼の後嫡男直持が奥州探題となり、次男兼頼が羽州探題となり最上氏を称した。

 大崎氏は、戦国時代になると家中の内紛が相次ぎ、また伊達氏の台頭等により次第に勢力が衰退した。天正14年、大崎義隆は留守政景を大将とする伊達勢との大崎合戦で勝利するが、翌年に最上義光の斡旋により政宗の軍門に降った。

 天正18年、領内が不穏であった大崎義隆は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣できず、小田原落城後の奥州仕置きにより改易となった。大崎氏改易後、木村吉清が城主となるが、天正19年に大崎葛西一揆が起きた。蒲生氏郷・伊達政宗らにより一揆鎮圧後、大崎・葛西領に伊達政宗が移封され、この時名生城が廃城となった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR陸羽東線東大崎駅〜徒歩約15分
 車 : 東北道古川IC〜国道47号線〜県道457号線
駐車場: 浄泉院参拝者用の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
奥州探題大崎氏歴代の居城。

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