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お城のデータ | |||||
所在地: | 宮城県多賀城市市川城前 | ||||
遺 構: | 曲輪、復元楼門、土塁、堀 | ||||
形 式: | 平城 | 築城者: | 大野東人 | 築城年代: | 神亀元年 |
見 ど こ ろ | ||||
陸奥国の国府であり鎮守でもあった多賀城の規模は驚くほど広い。多少のアップダウンはあるが、約1,000m四方の歪な方形をした縄張りで、塀で周囲を取り囲み、北を除く三方に門を設けていた。 ほぼ中央部には東西103m×南北116mの規模を誇る政庁が置かれ、内部には正殿・後殿・脇殿・楼などの建物があり、南正面に政庁の正門である南門が建ち、周囲を回廊が巡らされていていたとか。この南門から南門から外郭南門まで丘陵を一直線に下るように石段と道路が設けられている。また、外郭南門側には「多賀城碑」を見ることができる。 正殿の外、外郭内部の各所には実際に政務を執った役所の建物、兵士の宿舎等の建物が建ち並んでいたことが発掘調査によって判明している。外郭北東部の大畑地区には外郭東門と櫓の土塁が復元され、役所北門跡等の遺構を見ることができる。、丘陵を一直線に下るように石段と道路が復元された丘陵を一直線に下るように石段と道路が復元された殿、楼などを計画的に配置して、脇殿、後殿、楼などを計画的に配置して |
歴 史 | ||||
多賀城は、永正6年に始まる前九年の役、永保3年の後三年の役では源頼義・義家父子が多賀城に拠点を置いて乱の鎮圧に当たっている。その後、文治5年に奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が多賀城で陸奥国の統治方針を言い渡している。 鎌倉時代には多賀城(国府)に陸奥国守護職が置かれ、南北朝時代には北畠顕家が義良親王と共に陸奥に下向して国府を再興し、ここに陸奥将軍府を置いた。その為、北朝方との争奪戦が繰り広げられた。 足利一門斯波家兼が文和3年に奥州管領に任じられ、大崎地方に下向し以後斯波氏(大崎氏)が奥州管領、後に奥州探題を世襲するに至って多賀城は国府としての役目を終えた。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR東北本線多賀城駅〜徒歩約15分 |
車 : | 三陸沿岸道多賀城IC〜県道35号線 |
駐車場: | 多賀城中央公園の無料駐車場を利用 |
ひとくち MEMO | ||||||
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