伊予 鹿島城


お城のデータ
所在地 愛媛県松山市北条辻
遺 構 曲輪、石垣
形 式 海城 築城者: 今岡通任 築城年代: 建武年間


見 ど こ ろ
( 渡船乗り場から見る鹿島 )
 鹿島城は、北条港の沖合に浮かぶ鹿島の山頂部を利用して築かれている。鹿島への渡し船の桟橋がある島の東側の砂浜一帯が水軍の拠点となっていたと考えられる。

 鹿島城の縄張りは、山頂部の展望台がある所が一の曲輪で、北東の尾根筋に連郭式に小規模な二の曲輪・三の曲輪と広い四の曲輪が配置されている。一の曲輪の北側と四の曲輪の三方に石垣の遺構が残っていて、特に四の曲輪南側の遺構は見応えがあった。


歴     史
( 一の曲輪の石垣 )
( 四の曲輪の石垣 )
 鹿島城は、建武年間に今岡通任によって築かれたと云われているが定かではない。今岡通任は、風早郡那賀郷の地頭職。

 戦国時代の天文年間には来島村上氏の支配下に入り、天正6年頃に来島村上通康の庶長子得居通幸が城主となった。通幸は、永禄10年に父通康が没して弟通総が幼年で家督を継ぐと、これを補佐している。

 天正10年、村上(来島)通総・得居通幸は河野氏を見限り織田方に与した。この離反に対して河野通直も能島村上武吉らと共に来島城・鹿島城を攻めた。来島城は落とされ通総は秀吉の元へ逃れたが、兄得居通幸が鹿島城を守り抜いた。

 天正13年、豊臣秀吉による四国征伐に際して、小早川隆景を大将に伊予平定戦が行われると来島通総・得居通幸兄弟は豊臣方の先鋒として河野通直を攻めた。戦後、この戦功により通総は伊予風早郡14,000石を与えられ大名に列している。

 慶長2年の慶長の役で来島通総で戦死して次男長通が家督を継ぐ。慶長5年の関ヶ原では西軍に与した長道は改易となるが、福島正則の取りなしで豊後森に14,000石を与えられ移った。


お城へのアクセス
鉄 道: JR予讃線北条駅〜鹿島公園渡船〜鹿島
 車 : しまなみ海道今治IC〜国道196号線
駐車場: 鹿島公園渡船の有料駐車場を利用


ひとくち MEMO
北条港の沖合に浮かぶ鹿島に築かれた水軍城。

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