伊予 河後森城


お城のデータ
所在地 愛媛県北宇和郡松野町松丸
遺 構 移築門、曲輪、空堀、復元屋敷
形 式 山城 築城者: 渡辺 連 築城年代: 建久7年


見 ど こ ろ
 河後森城は、JR松野駅の南側正面にある独立丘陵に築かれている。この独立丘は、広見川・堀切川・鰯川が丘を取り囲むように流れ、天然の堀となった要害の地形となっている。

 この独立丘は、風呂ヶ谷と呼ばれる谷を抱くように馬蹄形に稜線を形成している。この稜線の最高所に本丸と二の丸を置き、西に10曲輪、東に4曲輪、更に堀切を隔てて古城の4曲輪、古城から南へ新城の曲輪が配置されている。

 本丸には一部石垣が残り、また西第十曲輪には土塁が残り、発掘に基づいて建物が復元されていた。東の曲輪群と古城の曲輪群を区切る堀切は岩を切り開いたもので見応えがある遺構の一つだ。

 城の北山麓にある永昌寺は城主の平時の居館跡で、寺の山門は河後森城の城門を移築したものだ。また、今は残っていないが宇和島城月見櫓は、河後森城天守を移築したとか。


歴     史
 河後森城は、築城年代は定かではないが、鎌倉時代の建久7年に渡辺連が入城したと云われている。

 戦国時代、渡辺教忠は土佐中村城主一条房家の次男東小路法行の子に生まれ、河後森城主渡辺政忠の養子となった。教忠は、一条氏が長曽我部氏に滅ぼされた後、長曽我部氏の伊予進攻に対してよく戦ったが、天正9年ごろに重臣芝氏によって城を追われた。

 天正13年、芝氏は豊臣秀吉の四国征伐後没落し、河後森城は宇和郡の領主となった小早川・戸田・藤堂・冨田氏の所領となり城代が置かれた。慶長19年、伊達秀宗が宇和島10万石の領主となると家老桑折氏が7,000石を領して河後森城に入城した。


お城へのアクセス
鉄 道: JR予土線松野駅〜徒歩約10分(登城口)
 車 : 松山道西予宇和IC〜国道56号線〜国道320号線〜国道381号線
駐車場: 河後森城の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
谷を取り囲むようにグルリと曲輪を配したお城。
  • 城門の移築先
    永昌寺 愛媛県北宇和郡松野町松丸

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