伊予宇和島城


お城のデータ
所在地 愛媛県宇和島市丸之内1丁目
遺 構 天守、門、曲輪、石垣、堀
形 式 平山城 築城者: 藤堂高虎 築城年代: 慶長元年


見 ど こ ろ
 宇和島城は、今でこそ市街地に囲まれた独立丘陵に築かれた城だが、築城当時は城の北と西側は直接宇和島湾に面し、堀は海水を引き入れ、海城の一面を持った城とも云える。

 海辺に城を築き海水を巧みに利用した縄張りは、この城を近世城郭へと改築した藤堂高虎の得意とする手法で、後に築城した伊予今治城伊勢安濃津城にも大きな影響を与えている。

 宇和島城は、不等辺五角形の縄張りで、城を囲まれた際に寄せ手に四角形の城と誤認させ、残る一方から反撃する戦法を想定していたとか。江戸幕府の隠密もこの城を四角形の城であると報告していたという逸話もある。

 宇和島城は、典型的な一二三段の平山城で、最高所の本丸には三層三階の天守が現存している。天守以外には、搦め手口にある上立門が現存している。今は残っていないが三の丸月見櫓は河後森城の天守を移築したものであったと云われている。 


歴     史
 宇和島城の前身、板屋城は築城年代や築城者については定かでないが、戦国時代には西園寺氏の家臣家藤信種、西園寺宣久の居城であった。

 文禄4年、藤堂高虎が宇和郡7万石を領して入封した。高虎は、板島城を宇和島と改称し、慶長元年から近世城郭へと城の大修築を行った。

 高虎は、慶長5年の関ヶ原の戦功により伊予半国20万石に加増され、今治城を築城して居城とした。更に慶長13年には伊勢・伊賀22万石に加増され、伊勢安濃津へと移封となった。

 慶長13年、富田信高が10万石を領して入封したが、慶長18年に石見津和野城主坂崎直盛と争い改易となった。

 元和元年、仙台城主伊達政宗の長子秀宗が宇和島10万石を領して入封した。寛文2年、2代宗利は老朽化した城の修築を幕府に願い出て寛文4年から修築工事を開始し、寛文11年に完成した。この時に現存する天守も築かれた。

 宇和島伊達家は秀宗の入封以後、江戸時代を通して代々この地を領して明治を迎えた。8代宗城は、幕末から明治維新にかけて活躍した名君として知られている。


お城へのアクセス
鉄 道: JR予讃本線宇和島駅〜バス/バスセンター
 車 : 松山道西予宇和IC〜国道56号線
駐車場: バスセンター周辺の有料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
小振りながらも優美な姿の現存天守があるお城。

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