お城のデータ | |||||
所在地: | 島根県鹿足郡津和野町後田 | ||||
遺 構: | 曲輪、石垣、堀切、屋敷跡、櫓 | ||||
形 式: | 山城 | 築城者: | 吉見頼行 | 築城年代: | 永仁3年 |
見 ど こ ろ | |||||
城山のリフト終点駅から出丸(織部丸)を経て大手口へと至る。出丸は坂崎氏によって築かれた曲輪で、尾根沿いに北からの敵の侵入に備えたもので、吉見氏時代の堀切も残っている。 近世山城の津和野城、中世城郭の縄張りを近世城郭へ修築したため、城の規模はさほど広くはないが、最高所の三十間台(本丸)を中心に放射線状に曲輪が配置された縄張りとなっている。また、津和野城天守は二の丸に築かれ天守台が残っている。(二の丸に天守が築かれた例は他には徳島城がある。) 津和野城の石垣群の中でも、特に、本丸人質櫓の高石垣は見事。三の丸から見上げるとその見事さにしばし見入ってしまった。高さが際だったそれと、津和野城天守は二の丸にあり、天守台が残る。 麓の津和野高校となっている場所が居館(藩邸)があったところで、遺構として馬場先櫓、物見多聞櫓が現存している。また、城門が浜田県庁の門に移築され浜田城内に現存している。 |
歴 史 | |||||
9代正頼は、天文20年、陶晴賢が大内義隆に謀反を起こして義隆を自刃させると大内義隆の姉を娶っていた関係もあり、大内義長・陶晴賢にいち早く叛旗を翻した。天文23年には三本松城を中心に攻防戦が繰り返された。 大内・陶氏滅亡後吉見正頼は毛利元就に従い、慶長5年の関ヶ原の合戦後毛利氏が防長2国へ減封になると、11代吉見広長も長門萩に移った。 慶長5年、坂崎直盛が関ヶ原の戦功により備前富山城から4万石で入封する。坂崎氏は僅か16年で改易となるが、津和野城は坂崎氏によって大修築されて近世山城へと変貌した。 元和3年、坂崎直盛改易後、亀井正矩が因幡鹿野より43,000石で入封する。亀井氏は、その後11代続いて明治に至った。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR山口線津和野駅〜バス/津和野高校前 |
車 : | 中国道山口IC〜国道262号線〜国道9号線〜県道13号線 |
駐車場: | 津和野観光リフト前、嘉楽園の無料駐車場を利用。 |
ひとくち MEMO | ||||||
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