|
( 本丸の西物見櫓台 ) |
|
( 六角堂東側の石段と石垣 ) |
|
( オランダ櫓のあった曲輪 ) |
鹿野城は、築城年代は定かでないが国人志加奴氏代々の居城であった。天文12年、志加奴入道は因幡・伯耆へ侵攻した尼子晴久に攻められ落城し自刃して果てた。
永禄6年、山名豊成が鹿野城に入り伯耆より東進する毛利氏に対抗したが、鳥取城主武田高信により毒殺され、守護山名豊定も武田氏に攻められ天神山城から鹿野城へと移った。翌年には毛利氏が鹿野城を攻め取り、以後毛利氏の因幡攻略の拠点となる。
天正8年、羽柴秀吉による第1次鳥取城攻めでは山名豊国が秀吉に降るが、毛利方が勢力を盛り返し吉川経家が鳥取城の守将として派遣される。翌年、秀吉は再度鳥取城を囲み兵糧攻めで落城させた。この戦功により、亀井茲矩が鹿野城13,500石を与えられた。
慶長5年、亀井茲矩は東軍に与して西軍の鳥取城の宮部長煕を攻めた。その戦功により茲矩は西因幡38,000石を与えられ、鹿野城を大改修を行い近世城郭へと変身させた。
元和3年、池田光政が因幡・伯耆の国主として鳥取城へ移封となり、2代城主亀井政矩は石見津和野へ移った。鹿野城は一国一城令により破却され、山麓部に光政の家老日置忠俊が屋敷を構えた。寛永9年に国替えで備前岡山から池田光仲がり鳥取へ入ると、鹿野へは佐藤知之が代官と派遣された。
寛永17年に元播磨山崎城主池田輝澄が甥の光仲に預けられ、鹿野1万石を堪忍料としてこの地に蟄居した。輝澄没後、嫡子池田政直が嗣いだが、寛文2年に播磨福本に移封となった。貞享2年、池田仲澄が25,000石(後3万石)を分地され10代続いて明治に至った。 |