対馬 金石城



お城のデータ
所在地 長崎県対馬市厳原町今屋敷
遺 構 曲輪、復元櫓門、石垣、庭園
形 式 平城 築城者: 宗 将盛 築城年代: 享禄元年


見 ど こ ろ
( 金石川沿いの南面の石垣 )
 金石城は、清水山南麓に築かれた居館形式の平城で、南を流れる金石川が天然の堀となっていた。現在は、体育館・グランドとなっている一帯が主郭で、対馬博物館の建つ一帯が東の出丸跡だ。

 主郭東側には二層の櫓門形式の大手門が復元され、金石川に沿った南面には宗氏の菩提寺万松院前まで石垣が築かれ、寺の山門前には搦手門跡の石垣の遺構が良く残っている。また、発掘調査によって確認された庭園も復元されている。


歴     史
( 搦手門の石垣 )
( 搦手門前の石垣 )
 金石城は、享禄元年に15代宗将盛によって築かれた。将盛は池館(屋形)を居城としていたが、宗氏一族の内訌で宗盛治らが池館を襲い焼き払った。乱後、将盛は荒廃した国分寺を移して金石館(屋形)を築いて居城を移した。

 20代義智は、豊臣秀吉の九州征伐に際して豊臣方に与して本領安堵を受け、その後の文禄・慶長の役には小西行長の軍勢と共に一番隊として朝鮮に渡っている。天正19年に秀吉は金石館背後の清水山に毛利高政に命じて清水山城の築城を命じているが、この頃まで金石館も館から城郭へと整備された。

 延宝6年、22代義真は朝鮮通信使の来朝に際して金石城が西の浜船着場から近すぎて行列が整わず威容が示せないため、厳原の最奥部に桟敷城を築いて居城を移した。文化10年に火災で大手門が焼失した際に幕府に届け出て文化14年に再建されていることからも金石城は江戸時代を通じて廃城されることはなかった。


お城へのアクセス
鉄 道: 厳原港〜徒歩約15分
 車 : 厳原港〜国道382号線
駐車場: 対馬博物館の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
対馬藩の政庁として、朝鮮通信使と宿所として利用されたお城。

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