対馬 清水山城



お城のデータ
所在地 長崎県対馬市厳原町西里
遺 構 曲輪、石垣、竪堀
形 式 山城 築城者: 毛利高政 築城年代: 天正19年


見 ど こ ろ
( 三の丸の石垣 )
( 三の丸東虎口 )
( 三の丸の櫓台 )
( 二の丸の石垣 )
 清水山城は、対馬府中の城である宗氏の居城金石城の背後に聳える清水山に築かれている。別々に築かれた城だが、金石城を根古屋とし清水山城を詰の城とする構想により築かれていることは明白で、現在の登城口付近の住宅地となっている辺りが金石城との連結する外郭があったと考えられているが、後世の改変もあり今では推定するしかない。

 清水山は山頂部こそ平坦な地形であるが決して広いわけでもなく、東西に伸びる尾根筋は両サイドが急な斜面となっている地形で、その尾根筋を削平して細長い曲輪群を構築している。朝鮮征伐の際に築かれた陣城でもあり、至って実戦的な縄張りとなっている。ただ、背後の有明山から伸びる尾根筋へ堀切での遮断線は構築されていない。

 登城口から急な登城道を登ると頭上に三の丸の石垣が迫ってくる。その塁上にはかつては櫓や城壁が建てられ、登城道はこの石塁前でUターンして櫓に背を見せながら三の丸東虎口へと進む。この虎口までたどり着く敵兵には頭上から背後からと矢玉が降り注いだことだろう。

 三の丸は清水山から伸びる尾根筋の先端部に築かれていて、ここからは眼下に厳原港に出入りする船を一望に見渡すことができ、この城が壱岐・博多への航路の要衝を押さえる城であることが実感できる。

 三の丸西側の虎口を見ながら二の丸へと尾根筋を登る。途中鞍部から南側へと降りる遊歩道があったが、ここがこの城の水の手口で途中に泉が湧き出ているとか。ここから登り石垣に沿って更に二の丸へ。二の丸は東西約50m×南北30m程の規模で、虎口が北側を除く3方向に開かれていて三の丸へと通じる東の虎口は枡形虎口となっている。

 二の丸から更に急な坂道を登ると本丸の石垣が見えてくる。本丸は東西約50m×南北約40mほどの規模で二の丸に通ずる東正面は二段に分かれ、それぞれ石垣で固められた虎口が設けられている。また、本丸南西部にも虎口が設けられていた。

 本丸・二の丸・三の丸各曲輪のみならず、本丸〜三の丸まで尾根筋まで石垣で固められ、見応えのある遺構と曲輪からの眺望に急坂を登る疲れなど吹き飛んでしまった。


歴     史
( 本丸下段の虎口 )
( 本丸上段の東虎口 )
 清水山城は、天正19年に毛利高政によって築かれた。天正19年、豊臣秀吉は「唐入り」を本格的に始動させる。宇喜多秀家を総大将として朝鮮を経由して征明遠征を諸大名に発表した。

 同時に遠征軍の宿営地として肥前名護屋城築城を九州諸大名に命じ、朝鮮釜山までの輸送・連絡の拠点として平戸・壱岐の領主松浦隆信に壱岐勝本城を築かせ、軍監に任じた豊後日田城主毛利高政には対馬清水山城(下対馬)・撃方山城(上対馬)を築かせた。

 朝鮮の唐入り先導交渉(朝鮮国王の入朝して服属or征明軍の朝鮮通過許可)が決裂して秀吉の「唐入り」は「朝鮮征伐」へと変わる。文禄元年に西国の大名を中心に全国の大名に動員令が出され、西国の大名は朝鮮へと渡海し、東国の大名が秀吉と共に予備軍として肥前肥前名護屋へ集結した。

 清水山城を築いた毛利高政は、文禄の役が始まると船奉行を務めで渡海し、対馬の島主宗義智は一番隊として5,000人(2,048人との記録もある)を率いて小西行長らと共に渡海して朝鮮へと攻め入った。


お城へのアクセス
鉄 道: 厳原港〜徒歩約15分(登城口)
 車 : 厳原港〜国道382号線
駐車場: 対馬博物館の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
秀吉が朝鮮征伐に備えて築かせたお城。

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