肥前 名護屋城


お城のデータ
所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
遺 構 曲輪、石垣、空堀
形 式 平山城 築城者: 豊臣秀吉 築城年代: 天正19年


見 ど こ ろ
 名護屋城に訪れたなら、直ぐに城跡へ行きたい気持ちをグッと抑えて、まず名護屋城博物館に行こう。ここには、名護屋城に関する資料・展示が満載。名護屋城と諸大名の陣城などについてのビデオ上映、そして嬉しいのが名護屋城の模型、肥前名護屋城図屏風(複製)を見た上で登城すべし。ちなみに、木下勝俊の陣城跡が博物館の裏にある。

 名護屋城は、基本的には三段の渦郭式縄張りだ。大手門(博物館前)から東の丸、三の丸、二の丸、そして本丸へと登城道を登る。本丸に至る登城ルートには、破却された石垣が累々と連なる。

 山里丸の石垣が修復復元されているので、本来の石垣の姿と破却された石垣を比べてみるのも一考か。映画「乱」の舞台(ロケ地)にもなったように、落城=廃墟が実感できる城でもある。

 本丸には、かつて五層の天守が聳えていた天守台も物の見事に破却され、僅かな石垣が残っていた。しかし、この本丸からの眺めは最高!360度の大パノラマ、遠く玄海灘を臨み、海と城の間に全国の諸大名が陣を張った陣城、そして本丸北側下段に遊撃丸、水手郭。しばし時間を経つのも忘れてしまう。かの豊臣秀吉もこの場所から、この光景を眺めたのだ。  


歴     史
 名護屋城が築城された勝男山には、松浦党波多信時の家臣名古屋経述が居城した垣添城があった。

 天正19年、豊臣秀吉は朝鮮出陣の拠点として、黒田如水、加藤清正・小西行長・黒田長政による縄張り、九州の諸大名による天下普請によって名護屋城を築城した。築城は異例なほどの突貫作業で行われ、約7ヶ月程で主要部が完成している。それまでの寒村だった土地に、一大巨城が出現した。

 秀吉は、朝鮮出陣の補給線の拠点として、名護屋城の他にも壱岐勝本城対馬国府清水山城も有馬晴信・松浦宗信らの九州大名に築かせている。

 7年間に渡る朝鮮出兵は、慶長3年8月に秀吉が大坂城で死去したことでようやく終わる。これと共に名護屋城の役割も終了した。

 慶長7年〜13年にかけて寺沢広高が唐津城を築城した際、名護屋城を破却して建物は唐津城へと移された。また、大手門は伊達政宗の仙台城大手門として移築された。


お城へのアクセス
鉄 道: JR唐津線線唐津駅〜バス/城趾前
 車 : 九州道福岡IC〜国道202号線/唐津〜国道204号線
駐車場: 大手門前の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
豊臣秀吉は朝鮮出陣の拠点として築かれたお城。

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