お城のデータ | |||||
所在地: | 佐賀県唐津市鎮西町名護屋 | ||||
遺 構: | 曲輪、石垣、空堀 | ||||
形 式: | 平山城 | 築城者: | 豊臣秀吉 | 築城年代: | 天正19年 |
見 ど こ ろ | |||||
名護屋城は、基本的には三段の渦郭式縄張りだ。大手門(博物館前)から東の丸、三の丸、二の丸、そして本丸へと登城道を登る。本丸に至る登城ルートには、破却された石垣が累々と連なる。 山里丸の石垣が修復復元されているので、本来の石垣の姿と破却された石垣を比べてみるのも一考か。映画「乱」の舞台(ロケ地)にもなったように、落城=廃墟が実感できる城でもある。 本丸には、かつて五層の天守が聳えていた天守台も物の見事に破却され、僅かな石垣が残っていた。しかし、この本丸からの眺めは最高!360度の大パノラマ、遠く玄海灘を臨み、海と城の間に全国の諸大名が陣を張った陣城、そして本丸北側下段に遊撃丸、水手郭。しばし時間を経つのも忘れてしまう。かの豊臣秀吉もこの場所から、この光景を眺めたのだ。 |
歴 史 | |||||
天正19年、豊臣秀吉は朝鮮出陣の拠点として、黒田如水、加藤清正・小西行長・黒田長政による縄張り、九州の諸大名による天下普請によって名護屋城を築城した。築城は異例なほどの突貫作業で行われ、約7ヶ月程で主要部が完成している。それまでの寒村だった土地に、一大巨城が出現した。 秀吉は、朝鮮出陣の補給線の拠点として、名護屋城の他にも壱岐勝本城、対馬国府清水山城も有馬晴信・松浦宗信らの九州大名に築かせている。 7年間に渡る朝鮮出兵は、慶長3年8月に秀吉が大坂城で死去したことでようやく終わる。これと共に名護屋城の役割も終了した。 慶長7年〜13年にかけて寺沢広高が唐津城を築城した際、名護屋城を破却して建物は唐津城へと移された。また、大手門は伊達政宗の仙台城大手門として移築された。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR唐津線線唐津駅〜バス/城趾前 |
車 : | 九州道福岡IC〜国道202号線/唐津〜国道204号線 |
駐車場: | 大手門前の無料駐車場を利用。 |
ひとくち MEMO | ||||||
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