上総 大多喜城


お城のデータ
所在地 千葉県夷隅郡大多喜町大多喜
遺 構 曲輪、模擬天守、移築門、土塁、空堀、堀切
形 式 平山城 築城者: 武田氏 築城年代: 大永元年頃


見 ど こ ろ
 大多喜城は、西から東へと延びる丘陵の先端部を利用して築かれ、夷隅川が先端部をUの字型に流れて天然の外堀とした要害の地に築かれている。

 城の縄張りは、丘陵の最高所に本丸を置き、ここに三層の天守(現在は模擬天守)を築き、一段下がって現在の大多喜高校敷地となっているところが二の丸、さらにその南側に三の丸を配している。

 城の遺構は、高校敷地内に二の丸御殿の薬医門が遺されているが、それ以外は宅地化と高校敷地となっているため消滅してしまった所も多い。それでも、宅地化されていない本丸背後の曲輪には土塁や空堀が残り、また北側の尾根筋には中世城郭(武田・正木時代)の遺構が遺されている。


歴     史
 大多喜城は、大永元年頃に武田氏によって築かれた。武田氏は、安房里見氏との抗争を続けていたが、天文13年に苅谷ヶ原の戦いに敗れ、里見氏の臣正木時茂が大多喜城主となった。

 天正18年、北条氏滅亡後関東に移封された徳川家康は、本多忠勝を大多喜城10万石に封じた。忠勝は、武田・正木時代の大多喜城を近世城郭へと大改修した。

 慶長6年、忠勝は伊勢桑名へと移り、忠勝の次男忠朝が新封5万石で城主となった。忠朝は元和元年の大坂夏の陣にて討死、甥の政朝が跡を継ぐが元和3年には播磨龍野へと移る。以後、大多喜には阿部・青山・稲垣氏と譜代大名が入れ替わり入り、元禄16年に松平(大河内)正久が相模甘縄より入り、以後9代続いて明治に至った。


お城へのアクセス
鉄 道: いすみ鉄道大多喜駅〜徒歩約15分
 車 : 館山道市原IC〜国道297号線
駐車場: 大多喜城の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
徳川四天王の一人本多忠勝が近世城郭に作り替えたお城。

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