肥後 隈本古城


お城のデータ
所在地 熊本県熊本市中央区古城町
遺 構 曲輪、堀
形 式 丘城 築城者: 鹿子木親員 築城年代: 明応年間


見 ど こ ろ
 隈本古城は、現在の熊本第一高校・熊本医療センター一帯が城域であった。清正築城以前の古城は、茶臼山(現熊本城本丸一帯)から派生した丘陵が南西に突き出し、北・西・南の三方が湿地や池沼に囲まれた要害の地であったとか。

 中世城郭が、そっくり熊本城二の丸の一部となっており、第一高校周辺部に残る石垣群は、清正の近世熊本城築城時に改修されたものであるが、南から西側にかけて僅かに残っている堀は、「古城堀」と呼ばれ中世城郭の名残だ。熊本市では埋められた古城堀の復元計画もあると、古城堀端公園にある案内板に説明文があった。


歴     史
 隈本城、明応年間に鹿子木親員によって築かれた。肥後守護菊地重朝は、千葉城主出田重綱に替わって楠原城主であった鹿子木氏を隈本に移し、国府・藤崎宮の維持にあたらせた。

 鹿子木氏は、大友義鑑の弟義武が守護菊地氏の養子に入ると、守護代的な役割を果たしたが、大友義鑑・義鎮父子と菊地義武が不和になり、天文23年に大友義鎮によって義武が追討され肥後が大友氏の所領となった。菊地義武に従っていた鹿子木鎮有(親員の孫)は、義武に協力した罪より隈本城を追われた。鹿子木氏追放後、城親冬−親賢−久基と城氏が三代続く。

 天正15年、秀吉の九州仕置で佐々成政が肥後一国を与えられ隈本城を居城にした。しかし、成政よる領内検地が起因で国一揆が起き、成政はその責任を問われ切腹となった。

 天正16年、佐々氏易後の隈本城には加藤清正が城主となり肥後北半国195,000石を領した。慶長3年、『熊本城』築城により隈本古城は、近世熊本城の二の丸の一部に組み込まれてしまった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR鹿児島本線熊本駅〜市電/洗馬橋
 車 : 九州道益城熊本空港IC〜県道36号線〜県道28号線
駐車場: なし。


ひとくち MEMO
熊本城築城前の中世城郭、築城後は二の丸の一部に。

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