お城のデータ | |||||
所在地: | 熊本県熊本市中央区本丸町 | ||||
遺 構: | 復興天守、櫓、門、塀、石垣、堀 | ||||
形 式: | 平山城 | 築城者: | 加藤清正 | 築城年代: | 慶長6年 |
見 ど こ ろ | |||||||||||
熊本城大手筋は、西の二の丸(熊本城公園駐車場)から西大手門(もっとも城内の門で格式のある正門、昭和56年に復元されたが近年台風の被害で櫓部分が取り払われている。)を通り、頬当門から数寄屋丸下御門を経て本丸へと至る。 本丸には三層六階の大天守、二層四階の小天守が復元されて建つ。どっしりとした武骨な天守であるが、それでいて華麗さを十分に考慮された天守。小天守が西に幾分ずらして建てられていて、北からの景観に配慮がなされている。(KKRホテル熊本あたりから見るとよい) 熊本城の第三の天守、宇土櫓。宇土城の天守を移築したとも言われているが、三層五階で最上階に高欄を持つ。その櫓台の高さ、石組みの見事さ、そしてその上に建てられた宇土櫓、実に絵になる。北大手門を入った所にある加藤清正を祀る加藤神社からは、深い空堀、宇土櫓、そして天守と間近に見ることが出来る。 小天守への入口から階段を下り、裏五階櫓下に這いずるようにしてしか通れない石門を2つ潜ると、ちょうど宇土櫓の石垣が二段の分かれているところに出られ、宇土櫓の真下まで行くことができる。(少々危険なため立入禁止、許可を貰って行った。) 熊本城の醍醐味は、なんと行っても築城の名手加藤清正のの居城だけに、その高石垣の見事さにある。城内いたるところに築かれた高石垣を見上げ、独特の勾配を持つ石垣に、見飽きることはないだろう。特に千葉城あたりからの眺めがお薦め。 また、高石垣だけでなく、長石垣と長塀も驚かされる。特に、熊本市役所前の長塀・後には飯田丸五階櫓が建てられていた高石垣、そしてその後に天守が見える。お城大好き人間じゃなくても、十分にお城を満喫できるとお思う。 天守や宇土櫓だけでなく、熊本城には数々の櫓や城門が現存している。櫓では、田子櫓・七間櫓・十四間櫓・四間櫓・源之進櫓・東十八間櫓・北十八間櫓・五間櫓・平櫓・監物櫓があり、城門としては不開門が現存している。 現在、熊本市では築城400年にあたる平成19年を目処に、本丸御殿の復元をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門など熊本城への登城ルートの建造物を復元を進めている。復元が終わったころに、もう一度絶対に訪れてみた。 |
歴 史 | |||||||
天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後隈本城には、越中富山城主佐々成政が肥後一国を与えられ入城した。成政は、強引な施政が肥後国人衆の反発を買い一揆が発生した。一揆は鎮圧されたが、成政は責任を問われ切腹を命じられた。 天正16年、佐々成政改易後、肥後は2分され南半国は宇土城に入った小西行長に与えられ、北半国25万石は加藤清正に与えられ隈本城に入った。 慶長6年、関ヶ原の戦功により加藤清正は、小西行長の旧領を会わせて、肥後一国52万石の太守となった。清正は、太守となると同時に茶臼山全山を城塞化した築城工事を始め、慶長12年に完成した。この時『隈本』を『熊本』に改名している。 寛永9年、加藤忠広(清正の子)は、幕府の豊臣恩顧の大名取り潰し策で謀反の疑いをかけられ改易された。忠広は出羽庄内城主酒井忠勝にお預けとなり、出羽丸岡に居を移した。同年、加藤氏の後に、豊前小倉城主細川忠利が肥後一国54万石の太守として入封する。以後、細川氏が11代居城して明治に至った。 明治10年、西南戦争では、熊本鎮台司令官谷千城以下3,400名が守る熊本城を、西郷隆盛に率いられた薩摩軍13,000名が攻めるが、ついに落せず撤退した。加藤清正築城の熊本城は、近代戦にも通用することを証明した。しかし、この時天守以下多くの城の建物が炎上焼失した。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR鹿児島本線熊本駅〜市電/熊本城前 |
車 : | 九州道熊本IC〜国道57号線〜県道28号線 |
駐車場: | 西大手門外の有料駐車場を利用。 |
ひとくち MEMO | ||||||
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