お城のデータ | |||||
所在地: | 大阪府大阪市中央区大阪城 | ||||
遺 構: | 復興天守、櫓、蔵、石垣、門、曲輪、堀 | ||||
形 式: | 平城 | 築城者: | 豊臣秀吉 | 築城年代: | 天正11年 |
見 ど こ ろ | ||||||||||||||||||||
江戸時代に大和川の付け替えが行われたが、台地の北側を淀川と大和川が流れ、東側は大和川とかつての河内湖の名残の深野池・新開池と湿地が広がり、西は大阪湾に面して、唯一天王寺方面の南側が平地(台地)となっている。 【石山本願寺】 本願寺が信仰と財力があったとしても、織田信長と11年にも及ぶ合戦を続けられたのは、石山本願寺の立地が「難攻不落の城」と云うべきものだったからだろう。 本願寺のあった場所は、諸説あるが現在の本丸辺りであるとの説が定説となっているようだ。現在も内堀に架かる橋が「極楽橋」と呼ばれているのも、石山本願寺の名残だろう。二の丸修道館西側には石碑が建てられていた。 【秀吉の大坂城】 秀吉の大坂城は何処へ行ったのか? 実は「秀吉の城は地下に眠っている」のだ。大坂夏の陣で灰燼と帰した秀吉の城の上に盛土をして現在の大坂城がある。城の規模は、本丸・二の丸・三の丸・惣構と今の大坂城の5倍の城域があった。 惣構は、東を猫間川を改修して堀とし、西側が現在の東横堀川で、上町台地の南側は台地の谷筋を利用して松屋町〜玉造を結ぶラインに台地を断ち切るように空堀が掘られた。現在の谷町7丁目〜8丁目で「空堀商店街」など地名と地形に名残を留めている。 【徳川の大坂城】 現在見ている大坂城は、秀吉の大坂城の上に徳川幕府の威信にかけて築かれた。日本三名城に数えられる城は、一日城内を駆けずり回っても飽きることはない。 国内外から訪れる観光客など多くの人が訪れる大坂城。写真を撮るにしても、人が写らないようにするのには一苦労するが、歩けば歩くほど、いろんな角度から大坂城を堪能できる。 大坂城は、本丸を二の丸が囲繞する輪郭式の縄張りで、本丸も二の丸も高石垣と幅の広い堀が築かれている。二の丸には南西に大手口、北西に京橋口、南東に玉造口、そして北に青谷口と4つの虎口が開かれている。 大手口・京橋口・玉造口は、一の門は多聞櫓を伴う櫓門と高麗門の二の門からなる内桝形形式で、大手口は矢を掛る千貫櫓と櫓門・続多聞櫓・高麗門が現存している。 青屋口は、唯一出桝形形式となっていて二の門から外堀に引橋が架けられていた。二の門は続多聞櫓がある櫓門であったが、今は多聞櫓はなく櫓門が再建されている。 二の丸の石垣上には、かつて13基の櫓があった。現在は、一番櫓・六番櫓・千貫櫓・乾櫓の4基の櫓が現存する。大手口から南外堀に雁行する石垣と六番櫓の姿はとにかく絵になる。 巨石の内桝形虎口が残る京橋口。その北側の外堀に突き出したように築かれた櫓台。これが二の丸で唯一三層櫓の伏見櫓があった櫓台だ。弘前城・丸亀城や宇和島城天守よりも大きかった櫓だが戦災で焼失してしまった。 本丸は、二段に分かれ北側は山里曲輪と称され、極楽橋を渡って山里口から姫門と二つの桝形門を経て天守・御殿のあった本丸上段へと進む。 南に桜門(本丸正門で内桝形形式となっていて現在は二の門の高麗門が残る)が開かれ、ここに桜門脇に龍虎石、多聞櫓跡に蛸石・振袖石などの巨石がこのを通る者に本丸正面の威厳を今も示している。 本丸の高石垣は、日本一の高さを誇り、特に東側の内堀に面した高石垣には圧倒される。今は古写真でしか見ることができないが、この高石垣の上には三層の南東隅櫓・馬印櫓・月見櫓・糒櫓と多聞櫓と建ち並ぶ姿は嘸かし壮大な姿であっただろう。叶うことはないが、この場所を訪れる度、これらの櫓群が復元されて高石垣の上に建ち並ぶ姿をひと目見てみたいと切に思う。 |
歴 史 | ||||||||||||||
【石山本願寺】 明応5年に蓮如上人が大坂の地に草庵を構えたことに始まる。京都市山科区にあった山科本願寺の別院として拡張され石山御坊・大坂御坊と称された。蓮如の子実如−証如−顕如の三代が戦国時代の争乱の中で法灯を守るが、本願寺はその中で武装化していく。 天文元年には山科本願寺が対立する日蓮宗徒と六角定頼によって焼き討ちされ、翌年には証如上人は、山科から石山(大坂)へと本願寺を移した。 元亀元年、顕如上人が織田信長に対して武装決起を信者に命じ、11年間に及んだ石山合戦は、天正8年に和議が成立して石山本願寺を信長に明け渡し、顕如上人は紀伊鷺森別院へと移った。 本願寺退去後の石山本願寺は大坂城と称され、織田信長の番城となり丹羽長秀・織田信澄が守将となっている。天正10年の清洲会議後には伊丹城主池田恒興の番城となった。 【豊臣時代】 天正11年、賤ヶ岳の合戦で勝利して「天下人」を手中にした豊臣秀吉は石山本願寺の地に天下人にふさわしい城を築く。秀吉が伏見城で没するまで大坂城の築城工事は継続され、城下町を囲む惣構も構築された巨大城郭となった。 慶長4年、伏見城から大坂城へと移った豊臣秀頼は幼少であり、豊臣政権の内部分裂を来し、翌年の関ヶ原の合戦で徳川家康が覇権を握ると、秀頼は摂津・河内・和泉65万石の一大名の地位に過ぎなくなってしまった。 慶長19年、大坂冬の陣が起きると豊臣方は10万の将兵と共に大坂城に籠城した。徳川方20万の軍勢が包囲して攻めるが秀吉が築いた名城大坂城も落とすことが出来ず、本丸を残して破却を条件に和議を結ぶ。しかし、翌年には夏の陣が起き豊臣秀頼と共に灰塵と化した。 【徳川時代】 元和5年、大坂夏の陣以降大坂城主となった松平忠明を大和郡山へと移し、大坂城は幕府直轄領となり伏見城代を務めていた高槻城主内藤信正が大坂城代となった。 元和6年から10年を要して、徳川幕府の威信を懸けた天下普請による大修築(実際には秀吉の築いた大坂城の上に徳川大坂城が新築)が行われた。城域は豊臣時代の1/5まで縮小されたが、内郭部の堅牢さは豊臣時代を遥かに上回るものとなった。 再築された五層五階の大天守は、寛文5年に落雷で焼失する。昭和6年、この天守台の上に徳川時代の規模で秀吉の天守をモデルにした3代目の大坂城大天守が建てられた。 大坂城代は、初代安藤信正以降70代牧野貞明まで5〜10万石程度の譜代大名が任じられ二の丸城代屋敷を居所とした。 元和7年には京橋口定番(高木正次)と玉造口定番(稲垣重綱)が置かれ、1〜2万石程度の譜代大名が任じられ、それぞれ京橋口と玉造口の定番屋敷に居住した。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR大阪環状線大阪城公園駅、森ノ宮駅〜徒歩約5分 |
車 : | 阪神高速法円坂IC・森ノ宮IC〜市道 |
駐車場: | 大坂城周辺の有料駐車場を利用(大手門脇の有料駐車場が便利) |
ひとくち MEMO | ||||||
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