お城のデータ | |||||
所在地: | 奈良県大和郡山市城内町 | ||||
遺 構: | 復元櫓・櫓門、曲輪、石垣、土塁、堀、移築現存門 | ||||
形 式: | 平山城 | 築城者: | 筒井順慶 | 築城年代: | 天正8年 |
見 ど こ ろ | ||||||||||||
郡山城は、秋篠川と富雄川に挟まれ南北に伸びる西の京丘陵の先端部を利用して築かれている。先端部のピークは近鉄郡山駅西側の大和郡山病院付近で、郡山城本丸より高く、筒井時代の本丸がこの辺りにあったと推定されている。 郡山城の縄張りは、渦巻様式に曲輪が配されている。本丸(天守曲輪)から左回りに毘沙門曲輪〜法印曲輪〜緑曲輪〜松倉曲輪〜二の丸〜陣甫曲輪と配され、更に東に三の丸、西に麒麟曲輪が配されている。 五層の天守が建てられていたという天守曲輪。現在は柳澤神社の境内となっている一帯で、堀を隔てて毘沙門曲輪・法印曲輪・玄武曲輪を含めて本丸だ。 天守台を含めて平成29年には石垣の修復・発掘調査が行われ綺麗に整備された。本丸天守台北面の石垣には、たくさんのお地蔵様が組み込まれてあり、中でも「逆さ地蔵」が有名だ。また、平城京羅城門の礎石も石垣に転用されている。また、本丸天守曲輪には白澤門と竹林門と二つの虎口が開かれ、現在毘沙門曲輪との間に架けられていた極楽橋の復元された。 毘沙門曲輪・法印曲輪には秀長時代の大手とされている梅林門が復元され、桝形を形成する追手向櫓と多聞櫓、法印曲輪には東隅櫓と十九間多聞櫓も復元されている。 二の丸は、高校敷地となっている一帯が二の丸御殿があった場所で、鷺池に面した西側に坤櫓と砂子の前櫓の石垣が残っている。本丸同様、松倉曲輪・緑曲輪・麒麟曲輪も含めて二の丸としている。郡山高校グランド西側にある永慶寺(柳沢氏の菩提寺)には、唯一現存する建物の遺構である南御門が移築されている。 三の丸は、郡山市役所からやまと郡山城ホールまでの一帯でかつては「五軒屋敷」と呼ばれる郡山藩家老屋敷が建ち並んでいた。虎口が南に郡山城の大手である柳御門、北に桜御門が開かれ、両門とも石垣が残っている。 増田時代に完成した郡山城の惣堀(外堀)は、東側を流れる秋篠川の流れを変えて外堀とし、鰻堀池・鷺池などの丘陵の谷間にあった溜池を堀と利用している。外堀は、JR郡山駅西側付近と郡山北小学校東側付近に良く残っていて、駅西側の外堀が外堀緑地として公園化されていた。(大和郡山城の惣構え) |
歴 史 | ||||||||
天正13年、城の修築半ばで順慶の跡を継いだ甥の定次は伊賀上野城へ移封となり、豊臣秀長が大和・紀伊・和泉100万石の太守として入城すると城の修築は本格化する。豊臣秀長の死後、養子秀保が嗣ぐが文禄4年に17歳で死去して大和大納言家は断絶する。 文禄4年、増田長盛が近江水口から郡山20万石を領して入封する。長盛は大和大納言家時代に内郭部分が完成していた城の修築を続け、翌5年に外堀(惣構え)を普請して城は完成した。 慶長5年に関ヶ原で西軍に与した増田長盛は改易なり、郡山城には城番が置かれ大久保長安・山口直友・筒井定慶と入れ替わって在番した。慶長20年の大坂夏の陣では豊臣方の大野治房らが攻め寄せ、城番筒井定慶は城から逃れ、城下は豊臣方によって焼き討ちされた。 大坂夏の陣が終わり、元和元年に三河刈谷城主水野勝成が6万石で入封する。元和5年に勝成が備後福山に移り、松平忠明が大坂城から12万石で入封する。水野・松平時代に大坂夏の陣で戦火を被って荒れていた城は、幕府直轄で伏見城から城門を移築するなど近世城郭へと改修された。 その後、本多・桜井松平・本多氏と城主は替わり、享保9年に甲府城主柳沢吉里が15万石で入封する。以後、柳沢氏は信鴻−保光−保泰−保興−保申と代々居城し明治維新を迎える。 尚、柳沢氏の大和郡山藩15万石の所領は、大和国内にまとまっておらず、大和以外にも近江・河内国内にも領地があった。近江五個荘には采地陣屋の金堂陣屋があった。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | 近鉄橿原線近鉄郡山駅〜徒歩10分、JR関西本線郡山駅〜徒歩約20分 |
車 : | 西名阪道郡山IC〜国道24号線〜県道9号線 |
駐車場: | 郡山城梅林門前の無料駐車場(10台程度)を利用 |
ひとくち MEMO | ||||||
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