大和 筒井城


お城のデータ
所在地 奈良県大和郡山市筒井町
遺 構 曲輪、土塁、堀
形 式 平城 築城者: 筒井氏 築城年代: 不明


見 ど こ ろ
( 虎口跡に建つ城石碑 )
 筒井城は、南北に走る吉野街道と東西に走る奈良街道が交わる交通の要衝に築かれた平城だ。発掘調査に拠れば、筒井城本丸にある菅田比売神社を含む東西120m×南北100mの居館「筒井館」が拡大拡張さてた城と云える。

 神社の西側に「シロ畑」と云われる一角があり、ここに城の説明板が立てられている。ここに記載されている要図を参考にすれば、内堀・外堀とも各所で分断され溝と蓮池と化してはいるが、ほぼ城の外周を一周することが出来る。光専寺の北側には、外堀と僅かではあるが土塁も確認でき、この辺りが一番城の名残がはっきりしている。


歴     史
( 蓮池となっている内堀 )
( 菅田比売神社南側の内堀 )
 筒井城は、築城年代は定かでないが筒井氏によって築かれた。筒井氏は、興福寺一条院方「官符衆徒の頭領」(大和国守護代に匹敵する地位)にあった。筒井城の初見は、大和永享の乱の永享元年で筒井順覚が城主であった。

 筒井城は、順覚−順永−順尊−順賢−順興−順昭−順慶と7代に渡って筒井氏代々の居城であった。この間、筒井氏は文明応仁の乱から戦国時代初期では没落と再興を繰り返す。天文19年にほぼ大和制圧に成功した筒井順昭が28歳の若さで急死し、幼少の順慶が家督を継いだ。これが、永禄2年からの松永久秀の大和侵攻の遠因となる。

 松永久秀と筒井順慶は大和の覇権を争うが、永禄8年には松永勢に筒井城を攻められ、筒井城を捨て布施城へと逃れた。その後反松永勢力の旗頭として勢力を盛り返し翌年には筒井城を奪還している。

 天正5年、松永久秀は織田信長に叛旗を翻したが居城信貴山城にて爆死する。天正8年、筒井順慶は信長より大和20万石の大名に封じられたが、この時、大和国内の城郭破却を命じられ、筒井城を廃して大和郡山城を居城とした。


お城へのアクセス
鉄 道: 近鉄橿原線筒井駅〜徒歩約5分
 車 : 西名阪道郡山IC〜国道25号線
駐車場: なし。


ひとくち MEMO
集落の中、民家の裏庭に隠れるように石碑が建てられているお城。

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