伊賀 上野城


お城のデータ
所在地 三重県伊賀市上野丸之内
遺 構 模擬天守、曲輪、石垣、堀
形 式 平山城 築城者: 筒井定次 築城年代: 天正15年


見 ど こ ろ
( 復興天守と小天守 )
( 城代屋敷枡形の石垣 )
( 城代屋敷表門跡 )
( 城代屋敷台所門跡 )
( 城代屋敷南面の石垣 )
 伊賀上野城は、伊賀盆地のほぼ中央部に位置する上野台地北端部を利用して築かれいる。台地の東から北へと柘植川・服部川が、西には木津川、南には久米川が台地を取り囲むように天然の堀となった要害の地形となっている。

 上野城の縄張りは、藤堂時代の修築で筒井氏時代の本丸を西に拡張して筒井氏時代の二の丸も合わせて新たに本丸とし、南側を除く三方に水堀と空堀を巡らした。筒井氏時代の三層の天守を廃し、本丸西側へと場所を移して五層の天守を建てた。この天守は完成間近な慶長17年に大暴風で倒壊し、豊臣氏が滅亡した事もあり再建されなかった。

 現在本丸ある天守は、昭和10年に建てられた。三層三階の木造天守で、二層の小天守をともなった複合式天守である。模擬天守とはいえ、築64年も経つとそれなりの貫禄がある。

 本丸東側に一段高く石垣が組まれた曲輪がある。これが筒井時代の本丸で、藤堂時代には城代屋敷があった所だ。実際この曲輪に立つと、この城の一番高所で「ここが本当の本丸」といった思いがする。筒井時代にはここに三層の天守があり、現在天守台上に石碑が建てられている。

 二の丸は、本丸南側に土塁と堀によって囲まれた広大な面積を持つ曲輪で、土塁上には2基の二重櫓と8基の平櫓が設けられ、南面の東西に両袖に多聞櫓を伴う東西大手門が建てられていた。

 二の丸内の西側高台に城主の「御屋敷」(現在の上野高校グランド)が置かれ、東側の高台に東曲輪(現在の桃青の丘幼稚園一帯)と呼ばれて、東側先端部に二の丸櫓が建てられていた。この櫓の名称からか後に東曲輪が二の丸と通称された。

 東曲輪から本丸北側は、上野台地の端崖となっていて縄張上も本丸南側と共に「未完」とも云える様相であるが、本丸北東部下には筒井氏時代の三の丸であった曲輪がそのまま受け継がれ、北谷堀が掘られ搦手口に当たる北谷口が開かれていた。

 同時に津城・伊賀上野両城の大修築を手がけた藤堂高虎であったが、財政的にも大きな負担であり、また豊臣氏滅亡後は外様大名であったが故に幕府への配慮もあり、上野城は弱点を残した未完の城となった。

 しかし、築城時は「平時の居城は津城、有事の居城は伊賀上野城」と考えての築城だけに、本丸は津城の倍の広さがあり、また高さ30mあまりもある本丸西側の高石垣など、築城の名手高虎の意気込みが感じられる。


歴     史
( 本丸南面の石垣 )
( 南西から見る本丸高石垣 )
( 本丸高石垣と内堀の全景 )
 伊賀上野城は、天正13年に筒井定次によって築かれた。天正12年に筒井順慶が没して養子定次が家督を継ぐが、豊臣秀吉の天下統一が進むなかで大和・和泉・紀伊三国が豊臣秀長に与えられ、筒井定次は天正13年に大和郡山から伊賀上野へ転封となった。定次は天正15年から築城を開始し文禄年間に完成した。

 慶長13年、筒井定次は失政を理由に改易された。この改易は、大坂城には豊臣秀頼が居り、大坂包囲網を構築したい幕府としては伊賀上野城は近江彦根城と共に軍略上の拠点と位置づけされ、それ故に豊臣恩顧大名筒井定次の失政に幕府が介入して改易とした主因であった。

 筒井定次の後には外様大名ながら徳川家康の信任厚い藤堂高虎が伊予今治から伊勢・伊賀20万石で入封した。高虎入封により筒井氏改易の主旨が証明されたと云えるだろう。藤堂高虎は、慶長16年から大坂方に備えるため筒井氏の築いた城の大改修を行った。

 慶長20年に大坂夏の陣で豊臣氏滅亡した以後も伊賀上野城は、元和の一国一城令も「伊賀の城」として存続を認められ、元和6年には高虎の弟藤堂高清が城代となる。寛永17年に高清没後は、伊賀の土豪出身の藤堂采女が城代となり、以後代々采女家が城代を世襲して9代元施の時に明治を迎えた。


お城へのアクセス
鉄 道: 伊賀鉄道上野市駅〜徒歩約5分
 車 : 名阪国道上野IC〜国道25号線(旧道)
駐車場: 二の丸入口の観光用上野公園有料駐車場を利用


ひとくち MEMO
築城の名手、藤堂高虎が大修築した未完の堅城。

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