近江 彦根城


お城のデータ
所在地 滋賀県彦根市金亀町
遺 構 天守、櫓、門、石垣、堀、竪堀
形 式 平山城 築城者: 井伊直継、直孝 築城年代: 慶長8年


見 ど こ ろ
( いろは松から見る彦根城 )
( 佐和口多聞櫓 )
( 佐和口門桝形 )
( 御殿表門と御殿表門東隅櫓台 )
( 表門付近の鉢巻・腰巻石垣 )
( 大手門から見る登り石垣丸 )
( 天 秤 櫓 )
( 太 鼓 門 櫓 )
( 西の丸三階櫓と東之取付多門 )
( 西の丸出曲輪の櫓門跡 )
 彦根城は築城に取りかかった時、井伊氏の石高は18万石。その後、寛永10年には30万石へと石高は増えたが、全てが18万石の家格に合った規模で築かれている。このため城の規模はさほど大きくはないが、最も完成度の高い平山城の一つと云える。

 しかし、築城時には大坂の豊臣氏が健在で築城工事を急いだこともあり、近江国内の佐和山城小谷城長浜城大津城安土城などから建物・石垣などを移した。天守は大津城より、西の丸三重櫓は小谷城天守と伝えられ、天秤櫓は長浜城から移築した等と、彦根城は寄せ集めの城でもある。

 彦根城の縄張りは、独立丘である彦根山の山頂に本丸を置き、山の尾根に沿って北から山崎曲輪・人質曲輪・西の丸・本丸・太鼓丸・鏡の丸と連郭式に曲輪を配し、西の丸北側と太鼓丸南側には堀切を設け、山腹に沿って横移動を防ぐ為に竪堀と登石垣が構築されている。

 彦根山の北側には琵琶湖の松原内海(現在は埋め立てられている)が広がり、彦根城の北の守りとなっていた。彦根山の山麓部を内堀が取り囲み、北を除く外側を馬蹄形に二の丸と中堀が囲繞している。二の丸には北に山崎口、西に舟町口、南に京橋口、東に佐和口を開き、それぞれ桝形を形成していた。因みに大手が京橋口、搦手が佐和口とされている。

 二の丸の外側を囲繞する様に三の丸が置かれ外堀がめぐらされていた。三の丸内は武家屋敷・寺院・町屋が置かれ、外側の芹川をも外堀と化し、これと三の丸を合わせて総構えを構成している。現在は、外堀は埋められ市街地と化して遺構は殆ど残っていないが、用水路となった堀や寺院境内に土塁が一部残存している。


 初めて訪れた人でも彦根城の良さを満喫できるための建物や縄張りなど、5つのチェックポイントを紹介してみよう。

【1.佐和口周辺】
 石垣の上には多聞櫓が建ち並び二層隅櫓が3基、これらの櫓の白壁が満々と水を湛えた堀にその姿を映す。特に武家屋敷である池田家長屋門付近から見ると光景がお勧めポイントだ。また、キャッスルホテル前のいろは松付近から見ると、佐和口多聞櫓、城山の中腹に天秤櫓、そしてその後ろに天守、お城好きには堪えられない風景がそこにある。

【2.表門付近】
 内郭部に入る表門前に御馬屋がある。彦根藩主の駿馬十数頭が飼われていたところで、現存する厩遺構は彦根城だけだ。また、大手門前には家老西郷氏の長屋門もある。表門を入ったところに表御殿が復元されていて、中は博物館で井伊氏所有の家宝類が展示されている。

 彦根城の内堀沿いを歩く。内堀の向こう側には彦根山の山裾を取り囲みように築かれた二段の石垣が目に入る。これが「鉢巻石垣」・「腰巻石垣」で江戸城でも見ることができるが、全国的にみて非常に珍しい遺構だ。

【3.鐘の丸周辺】
 彦根城の曲輪の中で鏡の丸が一番堅固であったとか。大手口と御殿表門からの登城道は天秤櫓の下で合流する。寄せ手は鐘の丸を経なければ本丸へとは進めない縄張りとなっているのだ。ここでは、縄張りの巧みさと天秤櫓を下からながめるのがお勧め。隠れたポイントは、鐘の丸下の帯曲輪みる高石垣と東西2ヶ所にある竪堀と登り石垣。

【4.本丸周辺】
 なんと言っても城の要、本丸。三層の天守(国宝)は、大修理の工事も終わり、装いも新たになって金の装飾の色が目映い。西の丸から見る天守もなかなか迫力がある。

 本丸月見櫓下の腰曲輪から裏門に向けて、堅堀と登り石垣がある。彦根城には全部で5ヶ所の堅堀と登り石垣があったが、往時は石垣上には城壁が築かれ、この塀を「登り塀」と呼ばれていた。

【5.西の丸周辺】
 三重櫓・多聞櫓と大堀切を見るのをお忘れなく。西の丸出曲輪(人質曲輪)から大堀切を隔て見上げる高石垣と三階櫓、迫力十分だ。しかも堀切の両端から堅堀と登り石垣が設けられている。

【6.番外編】
 普段あまり訪れないのが二の丸北側から西側であろう。現在は住宅地や滋賀大学・西中学の敷地となっている一帯だが、船町口門の桝形や東之取付多門櫓の石垣、内堀越しに見る山崎口や山崎三重櫓の石垣など少々マニアックだが結構見どころが多い。 


歴     史
( 山崎曲輪の北東之御櫓台 )
( 山 崎 口 門 )
( 船町口門東取付多門櫓の石垣 )
( 京 橋 口 門 )
( 三の丸南東隅の櫓台 )
 慶長5年、井伊直政は関ヶ原の役の戦功により、上野高崎から西軍の首謀者であった石田三成の居城佐和山城を与えられ、18万石に加増され入封する。直政は、慶長7年から彦根山(磯山・金亀山)に築城しようとしたが、関ヶ原の合戦で負った鉄砲傷がもとで死去する。

 直政の意志を継いだ嫡男直継は、慶長8年にに着工し、伊賀・伊勢・尾張・美濃・飛騨・若狭・越前の7ヶ国12大名がお手伝い普請を徳川家康から命じられた。慶長11年には直継は佐和山から彦根へ移った。

 慶長19年、大坂冬の陣が始まると家康の命により直継の弟直孝が名代として井伊勢を率いて出陣する。この頃、井伊家では当主直継と家臣団との不調和が続いたため、家康の命により直孝が井伊宗家を継承し、直継は上野安中3万石へ移され別家となり直勝と改名している。直勝の系統は後に越後与板へと移り明治まで続いている。

 2代直孝は、元和2年から彦根城の拡張工事を開始する。直継の築城一期工事は手伝い普請もあったが、大坂の豊臣氏が滅亡したこともあり、直孝による二期工事は井伊氏単独の普請であった。この二期工事完成により今に見る芹川を総構えとした城郭が完成した。

 井伊直孝は、将軍家の信任厚く3度の加増を得て譜代大名最高の30万石を領し、更に幕府領預かり5万石を合わせて35万石の格式を誇った。

 寛永9年に徳川秀忠臨終に際し、3代将軍家光の後見役に任じられたことが大老職の始まりと云われ、井伊家は3代直澄・4代直興(7代直該)・12代直幸・14代直亮・15代直弼が大老に任じられている。

 幕末、安政の大獄を主導した井伊直弼は、安政7年に江戸城桜田門外で水戸浪士による襲撃により殺害される。(桜田門外の変)幕府の配慮により井伊家の改易は免れ嫡男直憲への相続が認められたが、文久2年に父直弼の圧政を咎められ10万石を減封された。

 直憲は、禁門の変での功により旧領の内3万石を回復する。しかし、彦根藩の藩論は、譜代筆頭の家柄であった井伊家への桜田門外の変以後の幕府による減封等の殊遇から勤皇派台頭して明治に至っている。


お城へのアクセス
鉄 道: JR東海道本線彦根駅〜徒歩約15分
 車 : 名神高速彦根IC〜国号306号線〜国道8号線
駐車場: 彦根城周辺の有料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
国宝の現存天守があるお城。
湖東地方一番の観光スポットだ。「湖とお城」絵になる城だ。
  • 彦根城の写真を撮るには午前中が良い。特に佐和山口の多聞櫓群と堀に浮かぶ白壁の写真は、良く晴れた早朝に撮影するのがお奨め。 

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