越中 富山城


お城のデータ
所在地 富山県富山市本丸
遺 構 模擬天守、曲輪、石垣、土塁、堀
形 式 平城 築城者: 水越勝重 築城年代: 天文12年頃


見 ど こ ろ
( 模擬天守/郷土博物館 )
( 本丸黒門の枡形虎口 )
( 本丸の石垣 )
 富山城は、富山平野を流れる神通川と鼬川に挟まれた微高地に築かれている。現在の城趾公園と富山県庁との間を流れる松川は、かつての神通川本流の河道で、三方を河川に囲まれた自然の要害であった。

 富山城の縄張りは、北側を流れる神通川を背にして正方形の本丸を置き、東に東出丸、南に二の丸、西に西の丸があり、それぞれの曲輪の周囲を堀が囲繞している。更に、この主要部を三の丸が輪郭式に囲繞している。三の丸には東・南・西と虎口が開かれ、南の虎口が大手門となっていた。富山藩10代前田利保が造営した千歳御殿は東出丸東側(三の丸の一角)にあった。

 現在、本丸と西の丸の東側部分が城趾公園となっていて、本丸南側の堀と石垣が残っていて、南に向けて開かれた黒門の枡形虎口の石垣上に模擬天守(郷土博物館)が建てられている。

 城趾公園東側には復元された石垣が築かれ、その一角に千歳御殿正門(千歳御門)が移築され現存している。また御門に続く北東部に櫓風の建物が佐藤記念美術で、ここの石垣も風情がある。もっとも、富山城は城門付近を除いて石垣はなく、土塁主体の城であった。公園内南側に土塁の遺構が一部見ることができる。


歴     史
( 千歳御殿正門 )
( 佐藤記念美術館の石垣 )
( 西の丸南面と内堀 )
 富山城は、天文12年頃に神保長職によって築かれた。越中西半国の守護代であった神保氏は、越中一向一揆と手を結び越中の覇権を目指す。東進して新川郡へ勢力を伸ばした長職は、松倉城の椎名長常・康胤と争う。

 永禄3年、椎名氏を支援する越後春日山城主上杉謙信が越中へ侵攻し富山城を攻めた。神保長職は富山城を自焼させ増山城へと退き、永禄5年には上杉氏の軍門に降った。

 天正6年、上杉謙信が急死する。これを機に織田信長による越中への侵攻が開始され、天正9年には信長は佐々成政に越中を与えた。成政は越前小丸城から富山城へ居城を移し、上杉勢力の一掃して越中の制圧する。

 天正10年に起きた本能寺の変後、信長の後継者争いで成政は反秀吉の立場をとるが、柴田勝家滅亡後に秀吉の軍門に降った。天正15年の豊臣秀吉の九州征伐後、成政は肥後熊本城へ転封になり、文禄4年には越中一国は加賀前田利家へ与えられた。

 慶長10年、加賀・能登・越中の3ヶ国120万石の太守前田利長は、家督を弟利常に譲り金沢城から富山城に移るが、慶長14年に主要部の建物をことごとく焼失した。利長は一時魚津城へと移り、のち高岡城を築いて移った。

 寛永16年、3代前田利常は次男利次に10万石を与えて分家させた。利次は廃城と化していた富山城を修復、寛文元年に入城して富山藩が成立した。以後富山前田氏13代の居城として明治に至った。 


お城へのアクセス
鉄 道: JR北陸本線富山駅〜富山地鉄丸の内・県庁前駅(路面電車)
 車 : 北陸道富山IC〜国道41号線
駐車場: 城址公園の有料駐車場を利用


ひとくち MEMO
神通川が天然の堀となっていたお城。

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