お城のデータ | |||||
所在地: | 愛知県名古屋市中区本丸 | ||||
遺 構: | 復元天守、櫓、門、石垣、堀、曲輪 | ||||
形 式: | 平城 | 築城者: | 徳川家康 | 築城年代: | 慶長15年 |
見 ど こ ろ | |||||||||||||||
織田信長の生まれた那古屋城は、慶長15年の名古屋城築城の時に取り込まれ、二の丸の一部となっいる。 二の丸庭園入口に、教育委員会が建てた案内板がある。 【名古屋城】 金の鯱があまりにも有名な名古屋城大天守は、戦災で灰塵となったが、昭和34年に外観をそのままに鉄筋コンクリートで再建された。この時、金の鯱も復元された。 金の鯱は、檜の芯木に鉛板を張り、その上から銅板で被い、鱗に金を張り付けてある。築城以来、金の鯱は3度(享保・文政・弘化)に改修された。その度に金の純度が低下した。築城以来、金の鯱の盗難に関するエピソードは多いが、一番の盗賊は他ならぬ城主尾張徳川氏であったのだ。 名古屋城の見どころを、曲輪ごとに見てみよう。 1.本丸 何と言っても五層五階の大天守。名古屋城のシンボルだ。この大天守へは、小天守の下をくぐって入る様になっており、連結天守が一つの曲輪となっている。 また、この天守台は加藤清正が独力で築いたもの。ちなみに清正築城の肥後八代城も規模の違いこそあれ、名古屋城と同様に小天守から大天守へと入る様式となっている。 本丸への虎口は3ヶ所ある。本丸大手・搦め手共に馬出によって固められ、本丸側は出桝形虎口となっている。いずれも櫓門であった。一の門は無いが、二の門(高麗門形式)は現存していて、特に大手二の門脇の城壁も築城時の遺構の一つだ。 搦め手も東二の門は、かつて東鉄門とよばれ、二の丸東桝形にあった門を移築したものだ。 本丸には、西南(未申)櫓と東南(辰巳)櫓と二つの櫓が現存し、いずれも重文に指定されている。ともに二層三階の同一様式の櫓だ。高石垣上の櫓、そしてその後には天守が・・・、お城FANにとって満足度200%の光景だ。 2.二の丸・西の丸・御深井丸 二の丸は、尾張徳川氏の居城、藩主の御殿があった。今も庭園の一部が残っている。本丸御殿は将軍家上洛時に使用する御殿であったとか。 西の丸は、名古屋城正門であった榎多御門。明治43年に江戸城蓮池御門を移築して戦前まで残っていたが、惜しくも戦災で焼失した。現在は、鉄筋コンクリートで旧態復元された。 御深井丸には、清洲櫓とも呼ばれている三層三階の戌亥隅櫓が現存している。この櫓、清洲城の小天守を移築したものと長く伝えられてきたが、解体修理の結果、元和5年に建築された新造の櫓であることが判明した。 お城好きにとっては、「清洲城小天守移築」のほうが限りなくロマンがあって魅力的なのだが。 しかし、広々した水堀に映る白壁の櫓、その姿は十分に魅力的な姿なのだ。 |
歴 史 | |||||
名古屋城の前身の『那古屋城』は、大永元年に駿河・遠江守護今川氏親(義元の父)が尾張にも侵入し、那古屋城を築城して、一族今川氏豊を城主とした。 天文元年、今川氏豊は織田信秀に城を奪われ、以後織田信秀の居城となった。信秀の嫡男信長は、この那古屋城で生まれた。 天文3年、信秀は今川に備えるため古渡城を築いて移り、信長が城主となった。弘治元年、織田信長は清洲城へと居城を移し、那古屋城へは叔父の織田信光が入ったが、その後廃城となった。 【名古屋城】 慶長14年、徳川家康は九男義直を清洲城に封じるが、時に大坂城の豊臣秀頼攻略を考える家康は、濃尾平野の要地に大規模な城郭を築城することを考えていた。 清洲城は、手狭で水攻めに弱いとの判断から、小牧・古渡・那古屋の3候補地の内、今川氏築城の那古屋城址に築城を決定した。慶長15年に前田・加藤・福島・細川・黒田等の豊臣系大名に助役を命じた天下普請で築かれ、3年の歳月をかけて完成した。 慶長19年、名古屋城は完成し義直は清洲城から入城した。名古屋城は、徳川義直以後、御三家(尾張・紀伊・水戸)筆頭尾張徳川家61万石の居城として16代義宣まで代々続いた。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR東海本線名古屋駅〜地下鉄名城線市役所駅〜徒歩5分 |
車 : | 東名神名古屋IC〜名古屋高速都心環状線丸の内出口 |
駐車場: | 名城公園周辺の有料駐車場を利用 |
ひとくち MEMO | ||||||
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