紀伊 和歌山城


お城のデータ
所在地 和歌山県和歌山市1番丁
遺 構 復元天守、櫓、門、曲輪、石垣、堀
形 式 平山城 築城者: 豊臣秀長 築城年代: 天正13年


見 ど こ ろ
( 天守二の門と天守二の門櫓 )
( 浅野時代の大手 岡口門 )
( 一の橋と大手門 )
( 追 廻 門 )
( 復元された廊下橋 )
( 内堀と岡口門続き土塀 )
( 松の丸櫓の高石垣 )
( 砂の丸の石垣 )
 和歌山城は、紀の川左岸の吹上丘陵の北端部に位置する虎伏山に築かれている。和歌山市街のどこかでも眺めることができ、かつ紀の川河口の紀湊を押さえる要衝の地でもあった。

 和歌山城は、秀吉に命じられて虎伏山に築かれ、桑山・浅野氏の時代を経て御三家紀伊徳川家の居城なり、その都度城は拡張され整備される。城の縄張りから、そして石垣の積み方などからその過程を見ることができる。

 【築城から桑山時代】
 秀吉の命で築かれた当初の和歌山城は、瓢箪型をした虎伏山山頂の南の峰を削平して本丸を置き、北の峰に二の丸を梯郭式に配し、東麓一帯に南北に曲輪を配し、その南東角に馬出曲輪を伴う大手門を設けた。

 現在の天守曲輪や本丸を含む虎伏山の裏坂などで見られる小ぶりな緑泥片岩を用いた野面積みの石垣は桑山時代に築かれたものだ。また、天守台付近などに転用石が結構使われているのもこの時代に特徴と云える。

 【浅野時代】
 浅野氏時代の増改築は、基本的には桑山時代の縄張りを踏襲しているが、虎伏山南中腹に松の丸を築き、東側の曲輪を下の丸・蔵の丸・三の丸と区分し、内堀に沿って石垣を築いている。この拡張工事の際に大手門を従来の岡口門から北の一ノ橋へと移したと考えられている。

 浅野時代の石垣の遺構は、北堀から西堀や一ノ橋付近など和泉砂岩を使用した打込はぎや布積みの石垣で、一中門などで鏡石を用いているのも特徴だ。

 【徳川時代】
 徳川頼宣による大改修で和歌山城は今に残る近世大城郭へと変貌する。頼宣は、それまでの山頂部の本丸・二の丸を合わせて本丸とし、旧二の丸に本丸御殿を建てた。 

 虎伏山を輪郭式に新たに曲輪をめぐらすように増設される。従来の城主居館を更に西側に拡張して二の丸とし、城主の御殿と政庁など治政の中心とした。更にそれまで曲輪が配置されていなかった西の丸・砂の丸を設け、更に南側に南の丸を設けた。

 徳川時代に築かれた石垣は、一ノ橋中門・太鼓櫓台、砂の丸高櫓台付近、南の丸中仕切門付近などで見られる前面加工した切込はぎの石垣が随所に見られる。

 戦国の世から元和以降になると戦のない世へ時代が移ったこともあり、拡張時に築かれた砂の丸の西側から南側の不明門まで内堀は設けられず、防備の強化のために「折れ」を多用した高石垣が築かれている。

 【山上の連立天守】
 虎伏山上の本丸には、三層大天守と二層小天守、2基の隅櫓を多聞櫓で結んだ連立式天守群が天守曲輪を構成している。小天守脇の台所地下にある埋門の遺構も珍しい。この埋門から水の手門を経て不明門へと至るルートは、落城時の脱出ルートであったとか(このルート現在は立入禁止になってる)

 頼宣が入国した和歌山城の天守は、浅野氏が建てた三層の板張りの「黒い」天守であった。この天守は江戸時代後期まで存続していたが、弘化3年に落雷で焼失した。11代斉彊が天守再建を幕府に願い出て、嘉永3年に再建された。この時に今に見る「白い」徳川系の天守となった。

 【天守以外の建物遺構】
 戦災で焼失し復元された天守以外にも城内には、岡口門・追廻門が現存し、大手門と廊下橋が復元されている。廊下橋は、城主の居館御殿があった二の丸から紅葉渓庭園へと渡る城主専用のルートであり、廊下橋を渡るとなにやらお殿様になったような気分を味わえる。


歴     史
( 天守一の門の石垣 )
( 一の橋中門の石垣 )
( 台所門の石垣 )
( 天守曲輪埋門 )
( 水の手門 )
 天正13年、根来・太田・雑賀の三党は連合して豊臣秀吉に反抗した為、秀吉は6万の大軍を率いて紀伊に侵攻して根来寺を焼き討ちし、更に太田城を水攻めにして落城させた。

 同年、紀伊を征圧した豊臣秀吉は太田・雑賀党の残党に備えると共に権力誇示のため、弟秀長に命じて藤堂高虎と羽田一庵法印を普請奉行として和歌山城を築城させた。

 大和・紀伊・和泉で百万石を与えられた豊臣秀長は、大和郡山城を居城として城の大改修に取りかかる。この為、秀吉は天正16年に桑山重晴を秀長の家老にし、但馬竹田城から和歌山城へと移して城代を命じた。

 文禄3年に豊臣秀保が没して大和大納言家が断絶すると、桑山重晴は秀吉の直臣に戻り、慶長元年には嫡孫一晴に家督を譲り隠居する。桑山重晴・一晴二代に渡って城代を務めた時期に秀吉の築いた城の拡張・整備も行われた。

 慶長5年、桑山一晴は大和新庄に移封され、代わって関ヶ原の戦功により浅野幸長が、甲斐甲府から370,000石を領して入城する。浅野氏は、桑山氏時代の縄張りを更に拡張し、山頂に天守を建て、内堀・石垣などの改修を行った。この時にそれまでの大手であった岡口門から北の一ノ橋門へと大手を移した。

 元和5年に2代長晟が安芸広島に移封となり、代わって徳川頼宣が駿河駿府より555,000石で入封して徳川御三家の紀州家が成立する。 

 元和7年、頼宣は幕府より銀2,000貫を与えられ、虎伏山の西から南に城の大規模な拡張工事を行い今に残る城を完成させた。この大改修工事があまりにも大規模であったため、幕府より疑惑を持たれたが、付家老安藤直次の弁明で事なきを得た。しかし、正保年間に頼宣が城下町の拡張と総構えの構築を意図した外堀工事を行ったが、再度幕府より疑われて工事は途中で中止となっている。

 紀州徳川家は、初代頼宣以降代々和歌山を動くことなく14代茂承の時に明治を迎えた。紀州家は江戸時代を通じて二人の藩主が将軍家を継承してる。ちなみに8代将軍徳川吉宗は5代紀州家の藩主、14代将軍家茂(慶福)は13代紀州家藩主であった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR阪和線和歌山駅、南海電鉄南海本線和歌山市駅〜バス/公園前
 車 : 阪和道和歌山IC〜国道24号線(バイパス)
駐車場: 大手門、岡口門周辺の有料駐車場利用


ひとくち MEMO
徳川御三家の紀州家の居城。

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