お城のデータ | |||||
所在地: | 兵庫県朝来市和田山町竹田 | ||||
遺 構: | 天守台、石垣、曲輪、竪堀 | ||||
形 式: | 山城 | 築城者: | 山名持豊 | 築城年代: | 嘉吉3年 |
見 ど こ ろ | |||||||
この遺構は、天正から慶長にかけて、赤松広秀によって修築されたもので、戦国時代の山城と言うよりも、むしろ近世山城と言ってよい。 日本三大山城(美濃岩村城・大和高取城・備中松山城)の各城ともすばらしいものがあるが、城跡から見る展望、累々と残る石垣の見事さ、どれをとっても三代山城に勝るとも劣らないものだ。 むしろ、日本三大山城よりも山城のすばらしさ、感動を伝えてくれる。関ヶ原以後廃城されず、存続していたならば間違いなく「日本四大山城」に数えられていたと思う。 中腹の駐車場から城跡まで約15分。竹田城の大手門跡の石垣が出迎えてくれる。ここからが感動の始まりだ。 三の丸北千畳から見る本丸の姿は実にいい。二の丸武門跡を経て本丸へ。本丸には、天守台が築かれているが、天守へは直接入る石段はなく、付櫓(小天守?)内に階段が設けられていたと推測できる。 天守台からの眺めは最高。360度の大パノラマがそこにある。この城を訪れた誰もが驚きと寛喜の声をあげる場所だ。 城の縄張りは、本丸を中心に二の丸、三の丸(南千畳・北千畳・花屋敷)が配置されている。南千畳には居館が設けられ、今でも草をかき分けると居館のものであろうか、軒瓦を見つけることができる。 |
歴 史 | ||||
戦国時代の天正元年には、播磨龍野城主赤松広秀に攻められ落城し、城主太田垣朝延は因幡に逃れ、広秀が城主となった。 天正5年、豊臣秀吉がによる播磨侵攻により、但馬にも兵を入れ、竹田城も豊臣秀長によて攻められ落城した。秀吉は、但馬攻略の功を賞して弟秀長に但馬を預け、秀長はこの竹田城の城主なった。 その後、桑山重晴が城主になるが、天正13年紀伊和歌山城代に転じると、再び赤松広秀が城主に任じられた。この時期に、竹田城は現在残る石垣群が築かれた。慶長5年、赤松広秀は関ヶ原の役では西軍に加担して自刃し、竹田城も廃城となった。 |
お城へのアクセス | |
鉄 道: | JR播但線竹田駅〜徒歩 |
車 : | 中国道福崎IC〜播但道和田山IC〜国道312号線 |
駐車場: | 城山中腹に無料駐車場(50台程度) |
ひとくち MEMO | ||||||
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