美濃 岩村城


お城のデータ
所在地 岐阜県恵那市岩村町城山
遺 構 曲輪、石垣、堀、藩校
形 式 山城 築城者: 遠山景廉 築城年代: 文治元年


見 ど こ ろ
 岩村城は、備中松山城大和高取城と並んで日本3大山城の1つに数えられ、日本一高い所に有る城とか。岩村自体が標高の高い所なので、びっくりするほど高所の城って感じはなく、むしろ平凡な城山という感じだ。

 車で本丸下の出丸まで上れるが、岩村藩校の知新館側を通り、城主居館、そして山頂部の城へと、麓から汗を流しながら登城道を登ることをお奨めする。

 山頂の城跡には、建物の遺構は残っていないが、鬱蒼とした木々の中に累々と残る石垣群が出迎えてくれる。

 かつては大手門へは畳橋が架かっていたが、今は空堀の中を歩く。ここから見上げると天守代用だった大手三重櫓があった大手門一帯の石垣が覆い被さってくる。本丸一帯の縄張りは複雑で、幾重にも石塁が敵の侵入を防ぐ形になっていて、なかなか見応えがある。

 岩村城は、近世城郭として大修築されているが、本丸南側、出丸への登城道路沿いに案内板があり、ここから尾根筋に2ヶ所の堀切で隔てたれた南曲輪がある。この辺りには、中世「岩村城」のままの遺構が残されてた。


歴     史
 岩村城は、文治元年に加藤景廉によって築かれた。景廉は、源頼朝より遠山荘の地頭に補され、嫡男景朝が景廉に代わって赴任し遠山氏を称した。

 遠山氏は、岩村城を本城として遠山十八城と呼ばれる支城を築き、東美濃に勢力を拡大した。元亀元年、東美濃へ侵攻した武田氏と遠山一族は上村合戦に破れ、城主遠山景任はこの合戦で受けた負傷により没する。

 景任死後の元亀3年、景任の未亡人おつやの方が守る岩村城を武田の臣秋山信友が攻め、おつやの方と結婚を条件に和議が成立して、秋山信友が城主となる。

 天正3年、長篠の合戦に勝利した織田信長は、岩村城を奪回して川尻鎮吉を城主として城の大改修を行った。次いで森蘭丸・長可・忠政と森氏3代の城代各務兵庫が近世城郭へと改修を完成させた。

 慶長5年西軍に与した田丸具忠が改易され、徳川譜代松平家乗が2万石を領して入城する。その後、寛永15年に丹羽氏信が2万石で入封して以後5代氏音が家中騒動の咎により越後高柳へと減知転封になった。

 元禄17年に松平乗紀が信濃小諸から2万石にて入封。3代乗賢が老中になり1万石を加増され3万石を領した。松平氏は、その後岩村を動くことなく8代乗命の時に明治を迎えた。


お城へのアクセス
鉄 道: 明知鉄道岩村駅〜徒歩約15分(登城口)
 車 : 中央道恵那IC〜国道257号線
駐車場: 山頂部の出丸跡にある無料駐車場(10台程度)を利用。


ひとくち MEMO
日本三大山城の一つ、「女城主・・・」が有名なお城。

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