大和 高取城


お城のデータ
所在地 奈良県高市郡高取町上子嶋
遺 構 天守台、門(移築)、石垣、曲輪、水堀、堀切、竪堀、井戸
形 式 山城 築城者: 越智氏 築城年代: 南北朝時代


見 ど こ ろ
 『巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城』と景観をうたわれた高取城。

 今では雪と言われた高取山中に連なった白壁は残っていないが、日本三大山城(美濃岩村城備中松山城、大和高取城)の一つに数えられることだけはある。

 標高584mの高取山山頂一帯に残る石垣には、圧倒され感動の極みだ。異論も多々あるとは思うが、三大山城の筆頭だと私は思っている。

 高取城は、二の門から内が郭内で、二の門〜三の門〜矢場門〜松の門〜宇陀門〜千早門〜大手門〜十三間多聞〜十五間多聞〜下の門〜上の門と10ヶ所の門を経て本丸へとやっとたどり着く。

 千早門から内が三の丸、大手門から内が二の丸、上の門より内が本丸で、しかも本丸は、大天守・小天守・硝煙櫓・鉛櫓を多聞櫓で連結した天守曲輪の内郭と、一段下に天守曲輪を取り囲む外郭とに分かれた、非常に堅固な縄張りとなっている。

 高取城の郭内の外には、3つの尾根筋と大手道に外郭が設けられている。どの外郭の曲輪は、郭内ほど石垣などの遺構は少ないが、外郭も加えた高取城の規模の広さには驚かされる。

 高取城外郭は、まず大手筋には別所曲輪・岩屋曲輪、飛鳥岡寺方面の尾根筋には横垣曲輪があり、その先端部に堀切を伴った岡口門が設けられている。

 一方吉野口門からは堀切で隔てられた赤土曲輪がある。曲輪先端に弥勒の堀切があり、ここに宇陀口門があった。壺阪口門から壺阪寺方面には八幡神社のある八幡曲輪がある。

 高取城外郭の堀切は、いずれも堀切の両側に石垣を築き、そこに橋を渡して城内側に城門を設けた形式となっている。郭内の縄張りの見事さもさることながら、高取城をより知るためには外郭の曲輪群も見逃すことができない。

 高取城は、明治維新に廃城となって、天守以下の建物が取り壊されたが、高取城の城下町土佐(高取町)に、二の門(子嶋寺)と新御殿表門(石川医院)が移築して残る。 


歴     史
( 弥勒の堀切と石垣 )
 高取城は、南北朝時代に越智氏よって築かれた。その後、高取城は越智氏の詰め城として、越智氏の本城貝吹山城と常に連携を取っていた城である。

 天正8年、織田信長の大和国一国一城令により一端廃城となったが、天正12年には筒井順慶が高取城を大和郡山城の詰の城として復興を開始した。

 天正13年、筒井定次は伊賀上野へと移され、大和・和泉・紀伊三国は豊臣秀長が領することになり、高取城へは本多正俊が入った。秀長は筒井順慶と同様に高取城を詰の城とし、居城大和郡山城の大改修と共に高取城も近世城郭へと改修した。

 本多氏は、大和大納言家断絶後、15,000石を領して大名となったが、寛永14年、本多利家に嗣子無く断絶。寛永17年に植村家政が25,000石で入封し、植村氏が明治まで代々領した。


お城へのアクセス
鉄 道: 近鉄吉野線壺阪山駅〜徒歩、バス/壺阪寺〜徒歩
 車 : 京奈和道橿原北IC〜国道24号線/橿原〜国道169号線〜林道
駐車場: 壺阪口下まで車で行けるが路上駐車(10台程度のスペース有り)


ひとくち MEMO
日本三大山城の一つ、山城では珍しい水堀の遺構が残るお城。
  • 高取城城門の移築先
    子嶋寺 奈良県高市郡高取町感覚寺

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