常陸 水戸城


お城のデータ
所在地 茨城県水戸市三の丸3丁目
遺 構 曲輪、復元櫓、復元櫓門、城門、土塁、空堀
形 式 平山城 築城者: 大掾資幹 築城年代: 建久年間


見 ど こ ろ
 
 徳川御三家の城、徳川幕府のお膝元関東にあり、近隣諸国にその武威を示す必要が無かったためか、御三家の城という割には質素な城という感じがする。しかし、常陸の戦国大名佐竹義宣が築き、徳川御三家水戸家の居城として拡張されただけのことはある。

 水戸城は、那珂川と千波湖に挟まれた「馬の背」のような台地の上に築かれ、本丸と二の丸、二の丸と三の丸、それぞれの間にある空堀の深さには驚かされる。まるで台地を掘り切るような空堀である。(現在は、JR水郡線・国道が堀底を通っている)

 水戸城の遺構は、まず三の丸では空堀と土塁が、旧茨城県庁前、藩校弘道館とその北側にある。二の丸は、大手門の枡形虎口にある土塁、水戸二中の校内にある土塁。本丸は、水戸一高の敷地となっていて、校内には本丸の表門であった橋詰門(現存)、本丸の周囲に廻る土塁が残っている。こうしてみると、水戸城は、現在官庁・学校の敷地として使用されているため、土塁や空堀が随所に残り、城郭の原形を比較的よく保っている城だと思う。 

歴     史
 
 建久年間に大掾(馬場)資幹によって築かれた。その後馬場氏は府中城に移った時期もあったが、応永23年の上杉禅秀の乱に上杉方に与し、江戸通房に攻められ落城。以後、江戸氏代々の居城となった。

 天正18年、豊臣秀吉の小田原征伐後、常陸太田城主佐竹義宣は、常陸一国54,570石の安堵を受け、江戸重通を滅ぼして水戸城を本城とした。義宣は、入城すると城の大改修を行い、城名もそれまでの馬場城から水戸城へと改名した。

 慶長5年、関ヶ原で西軍に与した義宣は、出羽久保田へと移封になり、徳川家康は7男武田信吉を水戸に封じたが、信吉は早世してしまう。慶長14年、家康の11男頼房が、常陸下妻から25万石(後35万石)で入封、ここに徳川御三家(尾張名古屋紀伊和歌山、常陸水戸)が成立した。

 水戸徳川家は、10代慶篤まで代々江戸定府であった。水戸家で有名なのが2代水戸黄門光圀と幕末の藩主9代烈公斉昭である。


お城へのアクセス
鉄 道: JR常磐線水戸駅〜徒歩約10分
 車 : 常磐道水戸IC〜国道50号線
駐車場: 旧県庁前の有料駐車場利用。


ひとくち MEMO
徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城。

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