豊前 長岩城


お城のデータ
所在地 大分県中津市耶馬渓町川原口
遺 構 曲輪、石垣、石積櫓、竪堀
形 式 山城 築城者: 野仲重房 築城年代: 建久9年


見 ど こ ろ
 長岩城の登城道は、ともかく『悪路』の一言につきる。なるほど、道筋は保存会の方々によって立てられた道標、立木に巻き付けられたビニールひもによって迷うことはないが、足下は石だらけ。 沢を2〜3度渡るが、これとて橋もない。ともかく、この城を訪れる時は、トレッキングシューズ、軍手が必需品だ。

 悪路の登城道を登れば、一の城戸、二の城戸、三の城戸を経て東の丸へと登る。城戸の所には、苔むした石塁が出迎えてくれる。

 長岩城の石塁の特徴は、人ひとりで持てる程の小さな石を積み重ねた石塁だ。しかも、その石塁が山の斜面に沿って登り石垣となっているのだ。

 東の丸から本丸したまで約100m程の登り石垣が完存している。しかも、石塁の横には竪堀が深く築かれているのだ。

 本丸は、腰曲輪を伴った二段の曲輪から構成され、石垣によって固められた虎口が良く残っている。また、三の城戸から沢を渡った所に陣屋が築かれ、更に尾根を登ったところに石積櫓や弓状石塁が尾根筋に築かれている。 


歴     史
 長岩城は、建久9年に野仲重房によって築かれた。重房は、豊前守護宇都宮信房の弟で野仲郷を領して野仲氏を名乗った。

 野仲氏は、本家宇都宮氏と共に豊前の一大勢力となり、室町時代になると、野仲氏は豊前守護になった大内氏に臣従して郡代となった。大内義隆が重臣陶隆房によって殺された後に大友義鎮の弟義長が大内氏の養子となり家督を相続したため、豊前の諸氏は大友氏に従った。 

 毛利元就に大内氏が滅ぼされると野仲鎮兼は大友氏に反旗を翻して長岩城に籠城した。 しかし、大友義鎮に攻められ降伏した。大友義鎮が耳川の合戦で島津氏に敗れた後、豊前の諸氏は大友氏を離脱し、天正7年に野仲鎮兼は、軍を発し下毛郡を制圧した。

 天正16年、野仲鎮兼は中津城主となった黒田如水・長政父子に従わなかったため、黒田氏に攻められ豊前の名門野仲氏も滅亡した。 


お城へのアクセス
鉄 道: JR日豊本線中津駅〜バス/川原口
 車 : 大分自動車道玖珠IC〜県道28号線〜国道212号線〜県道2号線
駐車場: なし。(地区公民館の駐車場を利用)


ひとくち MEMO
急な斜面に築かれた登り石垣(石塁)が他に類を見ないお城。
  • 長岩城の登城口
    川原口のバス停前に写真入りの長岩城の案内板がある。登城口は、県道から南側を流れる津民川に架かる橋を渡ったところから登る。(ここにも案内板がある)

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