豊前 中津城


お城のデータ
所在地 大分県中津市二ノ丁
遺 構 模擬天守、模擬櫓、曲輪、石垣、土塁、堀
形 式 平城 築城者: 黒田孝高 築城年代: 天正16年


見 ど こ ろ
( 右側が黒田時代の石垣 )
( 復元された堀と石垣 )
( 本丸椎木門付近 )
 中津城は、築城の名手といわれた黒田如水が心血を注いで築城した城だ。その縄張りは、山国川(中津川)の河口に扇を広げたような形状をしていて、別名扇城と も云われている。

 中津城は、現在中津公園となっていて中津神社の境内でもあるが、ここに模擬五層天守と隅櫓が建てられ、天守内は資料館となっている。本来、中津城 には天守は存在しなかった。

 本丸北面には、黒田如水が築いた石垣とその後細川忠興が拡張した際に築 いた石垣とがあり、両者の築城手法の違いを見ることができる。また、古代山城の神籠石を多数運んで石垣の石材として利用していたのもなかなか興味深い。

 中津神社の鳥居脇には、発掘調査に基づいて本丸南面の石垣と堀が復元されている。石垣の下段部が出土した石垣で、上段部が復元された石垣だとか。

 三の丸一帯は住宅地となっているが、大手門・西門の石垣も一部残っている。三の丸は、かつては重臣の武家屋敷が立ち並んでいて、奥平氏家老生田氏の立派な屋敷門が南部小学校敷地に残っている。城下には、福沢諭吉の生家などもあり、時間があれば是非訪れてはいかがか。


歴     史
( 本丸水門跡 )
( 西 門 跡 )
( 大手門の石垣 )
 天正15年に黒田孝高(如水)が豊臣秀吉の九州征伐後に豊前6郡16万石を与えられ豊前馬ヶ岳城を居城とし、翌年から中津城の築城を開始した。城井谷城主宇都宮鎮房を中心とする豊前の国人領主は、本領安堵されなかったことに反発して一揆を起こし、黒田孝高・毛利勝永が一揆の鎮圧を図った。

 しかし、地の利を生かした一揆勢に敗れ、鎮房の娘を黒田長政の室にすることで和議を結んだ。しかし、中津城完成後の祝宴時に長政は岳父鎮房を謀殺し、直後に城井谷を攻めて宇都宮氏を滅亡させた。

 慶長5年、関ヶ原の戦功により黒田長政は筑前福岡へと移り、替わって丹後宮津より細川忠興が豊前396,000石で中津城へ入封する。忠興は慶長6年から小倉城を築城して移り、中津には嫡男忠利を城主とした。

 慶長9年に隠居した忠興は、忠利と交代して中津城を隠居城として、三の丸と外郭の増築、城下町の育成を行った。寛永9年、細川忠利が肥後熊本への転封に伴い忠興も八代城へと移った。

 その後に、小笠原長次が播磨龍野より8万石で入城、6代長興が播磨安志へと、奥平昌成が丹波宮津より10万石で入封する。以後、奥平氏が代々居城して明治に至った。


お城へのアクセス
鉄 道: JR日豊本線中津駅〜バス/中津公園地入口
 車 : 九州道小倉東IC・宇佐別府道路宇佐IC〜国道10号線〜県道23号線
駐車場: 中津公園の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
山国川(中津川)河口に扇状に縄張りされた海城。

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