長門 勝山御殿


お城のデータ
所在地 山口県下関市田倉
遺 構 曲輪、石垣、堀、移築書院、移築門
形 式 陣屋 築城者: 毛利元周 築城年代: 文久3年


見 ど こ ろ
 三方を青山城・勝山城・四王司三城と中世山城があった山に囲まれ、南側 に小さな勝山盆地を見下ろす処に勝山御殿はあった。『御殿』というが、幕末の動乱期に長府陣屋を捨て、わざわざ築いただけに、長府毛利氏の立派な居城である。

 勝山御殿の縄張りは、南に向けて山の斜面を三段に削平して、上段が本丸、中段が二の丸、下段が三の丸となっている。 本丸は、低い石垣と堀で二の丸と区別され、ここに藩主の居館が建てられていた。

 二の丸が見どころのメインの曲輪だ。 二の丸への虎口は、東・南・西にそれぞれ開かれていて、それぞれ高々と築かれた石垣が残っている。特に、正門であろう南正面の虎口と西南隅の櫓台の石垣はなかなのものだ。三の丸は、畑と駐車場となっているが、よく見ると所々に石垣が組まれていたなごりがある。


歴     史
 勝山城は、永和4年に永富嗣光が築いた山城である。天文20年に大内義隆を滅ぼした陶隆房は、大内義長(大友義鑑の子)を大内氏の後継者とする。

 弘治3年、毛利元就によって山口を追われた大内義長は、内藤隆世の居城勝山城に籠もるが、毛利の先手福原貞俊によって攻められ落城した。義長は、長府長福院で自刃し大内氏は完全に滅亡した。

 江戸幕末の文久3年、長府藩主毛利元周は、外国船に砲撃を加え攘夷に踏み切った。これが馬間戦争の始まりである。外国船の艦砲射撃に備え、新たな関門海峡防衛の拠点として、勝山に居館を築いた。廃藩までの短い期間ではあったが、明治までこの勝山御殿が長府藩の居城であった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR山陽本線新下関駅〜バス/田倉
 車 : 中国道下関IC〜国道2号線〜県道34号線〜県道247号線
駐車場: 勝山御殿の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
幕末の尊皇攘夷のために関門海峡防衛の拠点として築かれた陣屋。
  • 勝山御殿の移築門
    了圓寺 山口県下関市大平町

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