長門 櫛崎城


お城のデータ
所在地 山口県下関市長府宮崎町
遺 構 天守台、石垣、曲輪
形 式 平山城 築城者: 内藤隆春 築城年代: 永禄12年


見 ど こ ろ
 下関水族館の裏山が櫛崎城趾で、廃城後に陣屋を構えた所が水族館横の豊浦高校の敷地となっている。

 長府の街の南端にあり、ちょうど周防灘に突き出した半島で、東と南は断崖絶壁となっていている。城の直ぐ下まで関門海峡の波が迫り、海峡を挟んで門司城も間近に見ることができる。この城が、関門海峡を抑える意味で毛利水軍の重要拠点として築かれたことが、素直に理解できた。

 まず、駐車場に車を止めて直ぐに、松崎口と二の丸の長々と築かれた石垣 が目に入る。石垣下の路地を挟んで民家が建て込んでいて、写真を撮るのに一苦労させられた。また、城山の雑木林の中には至る所に、かつては高 々と築かれていたであろう石垣の一部がひっそりと残っていた。

 水族館から急な階段を登ると、なんと!、本丸天守台が復元されているではないか。巨石を多用した見事な天守台である。よく見ると石垣下部 に築城当時の石垣と思われる石が積まれている。復元については賛否両論あろうが、ここからの眺望はお奨めものだ。こ の眺望には賛否両論はないのではないか。 


歴     史
 永禄12年、内藤隆春の臣勝間田盛長がこの城に居たとの記録がある。このことから、内藤氏が築き、勝間田氏が城番であったと考えられている。

 慶長5年、関ヶ原で敗れた広島城主毛利輝元は、防長2ヶ国36万石に減封となり萩城を築いて移った。これに伴い、周防山口178,000石を領していた毛利秀元(輝元養子、元就四男穂田元清の長男)は、36,200石を長門長府の地に与えられた。

 慶長7年、秀元は長府雄山に櫛崎城を築く。しかし、元和元年の一国一城令によって、わずか13年で廃城となった。その後、秀元は城の一部に居館を構え陣屋とした。長府毛利氏は、毛利三支藩(長府・徳山清末)の筆頭として、14代続き明治に至った。

 江戸幕末の文久3年、長府藩は外国船に砲撃を加え攘夷に踏み切った。これが馬間戦争の始まりである。外国船の艦砲射撃に備え、新たな関門海峡防衛の拠点として、勝山御殿を築いて居を移した。


お城へのアクセス
鉄 道: JR山陽本線長府駅〜バス
 車 : 中国道下関IC〜国道2号線〜国道9号線
駐車場: 下関水族館の無料駐車場(約100台程度)を利用。


ひとくち MEMO
関門海峡を押さえる要衝にあるお城。

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