豊後 岡 城


お城のデータ
所在地 大分県竹田市竹田字岡
遺 構 曲輪、石垣、堀切
形 式 山城 築城者: 緒方惟栄 築城年代: 文治元年


見 ど こ ろ
( 大 手 門 跡 )
( 古大手門跡 )
( 西の丸帯曲輪 )
( 西の丸南面通路側の石垣 )
( 西の丸御殿への石段))
( 中川但見屋敷北面の石垣 )
( 賄方曲輪北側の石段 )
( 中川覚左衛門屋敷 )
( 中川民部屋敷 )
( 西の丸近戸門跡 )
 豊後竹田は、作曲家滝廉太郎の故郷。「荒城の月」のモデルはこの岡城だ。このイメージに岡城は見事にマッチしている。岡城の駐車場がかつての惣役所跡、ここから岡城へ登城開始。事務所で貰ったパンフに一周所要時間90分とあったが、城好きには一日居ても飽きることない城だった。決して入城料300円は高くない。

 岡城は、竹田市市街地の東側に東西に細長く伸びる丘陵に築かれている。丘陵の斜面は台地が浸食されて四面が断崖絶壁となり、丘陵の北側には稲葉川、南には白滝川が丘陵を取り込むように流れて天然の外堀となった難攻不落の要害の地となっている。

 城下絵図を見ると、清水谷・愛宕谷・地獄谷など岡城三八谷と呼ばれる浸食谷が南北を流れる川に向けて形成されている。この谷筋に沿って岡城へと登る幾つもの登城道があり、麓と繋がる東側に上級家臣の屋敷、南側には足軽屋敷や重臣の城屋敷などが登城道沿いに武家屋敷が置かれた。

 城石碑から登城道を登れば正面から、背後から、そして頭上から登来る者を今でも威圧し来る。往時は容赦なく矢玉が降り注いだのだろう。そんな登城道を登り詰めたら大手門が待ち構えている。

 大手門は、櫓門形式の雁木を伴った内桝形の虎口で、櫓門の石垣や雁木の遺構から大手門の規模を容易に推定できる。大手門を左に曲がれば西の丸、東正面へと桜馬場を進めば岡城の中心部への経路となる。大手門の隣に古大手門があり、その外側の尾根筋には堀切の遺構がある。

 大手門を基点とすれば、岡城は西から北へと清水谷を馬蹄形に西の丸御殿と家老屋敷が並び、大手門から東には三の丸・二の丸・本丸が配され、本丸の東には志賀親次の岡城中心部があった東の丸が配された縄張りとなっている。

 【西の丸】
 西の丸は、三段に分かれた縄張りは3代久清が西の丸御殿を設けた城中でも一番広い曲輪。御殿へは幅広い石段(現在は石段保護のためフェンスがあり通行不可)を登り中段の東門を経て上段の御殿へ。御殿から東下の下段帯曲輪へと直接通じる虎口も開かれていた。

 【家老屋敷】
 西の丸御殿が普請された際に周辺には3つの家老屋敷が配置された。西の丸に隣接して中川民部屋敷(3代久清五男久旨の家系)と中川覚左衛門屋敷が並んでいる。覚左衛門屋敷跡から見る本丸・三の丸の姿にうっとり。

 それぞれの屋敷は、石段や石垣で固められ城の防衛上重要な曲輪でもある。中川民部屋敷門の先には大手門と並んで西に向けて開かれた近戸門の石垣が良く残っている。

 大手門から桜馬場沿いに面して石段の付いた屋敷門を構えているのが中川但見屋敷で、東に隣接して城代屋敷がある。但見屋敷の北面は谷筋に向けて高石垣と虎口が開かれ、賄方跡から見る石垣は見応えある。

 【三の丸】
 外枡形となった三の丸への虎口西中仕切門(貫木門)が行く手に立ちはだかる。この辺りが岡城で最も幅の幅の狭い所で、その両側とも深い谷筋へと断崖絶壁となっている。西仕切門北側に連なる三の丸・二の丸の高石垣が岡城のビューポイントの一つだ。

 西仕切門を入ると正面には三の丸太鼓櫓門が出迎えてくれる。「見せる」を意識した巨石を用い隙間無く積まれた門の石垣は、城主の権威を訪れる者に見せつけてくれる。

 【二の丸】
 三の丸から本丸北側の石段を登れば、北にL字型に突き出した二の丸がある。かつては中央に御殿があり、北端の突き出した所には数寄屋風の月見櫓、東端には風呂屋があり二階から箱階段で本丸と通じていた。二の丸は城主の和やかで優雅な趣のある建物がある曲輪であった。

 【本丸】
 本丸へは二の丸から合坂の急な石段を登る。かつては古写真でもよく見る御三階櫓(天守)と隅櫓・多聞櫓・金蔵で取り囲まれた中央に本丸御殿が建てられていた。三階櫓台からの眺望は見飽きる事が無い。

 【東の丸】
 本丸金蔵下には堀切の遺構があり、狭い通路と堀切と東仕切門が搦手口からの侵入を防いでいる。荘嶽社・御廟所があった場所が中世岡城の中心部であった。東の丸には北麓へと通じる清水門と搦手の下原門があり、志賀氏時代の大手であった故か門の両側の石垣も見応えがあった。


歴     史
( 三の丸の高石垣 )
( 三の丸西仕切門 )
( 三の丸太鼓櫓門 )
( 本丸三階櫓台 )
( 本丸東面と東仕切門 )
( 東の丸清水門 )
( 東の丸御廟所 )
( 搦手口下原門の高石垣 )
 岡城は、文治元年に緒方惟栄によって築かれた。惟栄は源義経が平家を討ち滅ぼした後、兄源頼朝と不和になり豊後の緒方一族を頼ろうとするが暴風雨に阻まれ果たせなかったが、この義経一向一行を迎えるために岡城を築いたと伝承されている。

 南北朝時代の元徳3年に大友氏の一族志賀貞朝が志賀城から移り岡城を拡張して居城とした。「豊後国志」では応安2年に志賀氏が直入郡に入り岡城を居城としたしている。

 大友能直の子能郷が、豊後大野郡志賀村の地頭職を分与され志賀氏を称した。志賀氏は、大友氏の三大支族の一つに数えられ、後に宗家の北志賀家(岡城は宗家の北志賀家の居城)と分家の南志賀家とに二系統に分かれるが、共に戦国時代まで大友一族の中で重きをなしている。

 戦国時代の志賀氏は、天文19年の大友氏の家督相続にまつわる内紛の二階崩れの変、大友義鎮(宗麟)の家督相続に尽力した志賀親守、子の親度は加判衆として宗麟に仕えたが天正6年に宗麟の跡を継いだ義統と不仲になり失脚、同年に親守の子親次が長兄親度の養子となって北志賀家の家督を継いだ。

 天正14年、薩摩の島津義弘が37,000の大軍を率いて豊後へ侵攻(豊薩合戦)を開始した。大友義統との不仲で殺害されかけ大友氏にふた北志賀親守・親度父子、南志賀鑑隆・鎮隆ら志賀一族は島津氏に寝返ったが、岡城主志賀親次のみ大友氏に忠節を貫いた。

 島津勢は、二度にわたり志賀親次の籠もる岡城を攻めたが、少数の兵力ながらもその都度島津氏を撃退した。島津氏は、豊臣秀吉の九州到来により豊臣勢が南下し始めると島津勢は豊後から退却する。志賀親次は退却する島津勢を追撃して敗走させ、更に島津氏に降った大野・直入郡の諸城を攻め落とした。

 天正15年に親次は豊臣秀吉より感状を受け豊後日田郡内で1,000石を与えられている。豊薩合戦で島津勢に敗れた大友諸将の中で、度々島津勢に勝利し岡城を守り抜いた志賀親次の戦功は大きく、岡城もまた世に「難攻不落の日本三険城の最上」といわしめることになる。

 文禄2年、大友義統が文禄の役での不手際により改易され所領没収となると、大友氏の重臣であった志賀親次も岡城を退去し、その後蜂須賀家政・福島正則・毛利輝元にそれぞれ仕えている。

 豊後は大友氏改易後、豊臣秀吉の蔵入地と秀吉臣下の諸将に細分化され、岡城には文禄3年に播磨三木より中川秀成が移り74,000石を領した。

 慶長元年より秀成は岡城を西の天神山を削平して増拡張し、総石垣造りの近世城郭へと改修して三層の天守(御三階櫓)を建てた。加藤清正の助言で城の東端にあった志賀氏の大手下原門を搦手口とし、新たに正門を城の西に移して大手門と近戸門の二つの虎口を設けた。

 慶長5年、関ヶ原の役では中川秀成は西軍に与して細川幽斎の籠もる丹後田辺城攻めにも参陣したが、のちに東軍に与した。西軍に与して豊後臼杵城に籠もる太田一吉を攻め、佐賀関の合戦で太田勢に敗れ多数の家臣を失ったが、この功績を認められ中川秀成は本領安堵された。

 中川氏は、初代秀成が入封以来岡から動くことなく13代久成の時に明治を迎える。その間、3代久清が寛文4年に西の丸御殿を家督相続による隠居後の住まいとして普請した。その後、城の公式行事の一つに用いられるようになった。

 岡城は火災や地震にも幾度も被災している。8代久貞の代では、明和6年に地震で天守が倒壊し、明和8年には本丸・西の丸御殿など城の大半を焼失している。天守は安永3年に再建され、西の丸御殿は安永8年に再建されて以後、政務の中心的役割を果たすようになった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR豊肥本線豊後竹田駅〜バス/岡城入口 or タクシー
 車 : 中九州道竹田IC〜国道57号線〜県道8号線
駐車場: 岡城の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
滝廉太郎の「荒城の月」のモデルとなったお城。

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