周防 若山城


お城のデータ
所在地 山口県周南市福川
遺 構 曲輪、石垣、土塁、空堀、畝状竪堀、堀切
形 式 山城 築城者: 陶 弘護 築城年代: 室町時代


見 ど こ ろ
 若山城は、厳島の合戦で毛利元就に敗れた大内氏の重臣陶晴賢の居城だ。徳山湾を一望できる若山の山頂部に築かれていて、三の丸・二の丸(駐車場)・本丸・西の丸・蔵屋敷と連郭式に曲輪を配した縄張りの典型的な中世城郭だ。

 本丸東側の尾根筋は、幾段かの小さな削平地があり、その北側には畝状竪堀群を配し、本丸北側には横堀と思われる空堀・土塁が更に防備を固めている。二の丸・三の丸は、駐車場となっていて遺構は何も残っていない。一方、本丸西側に空堀を隔ててある西の丸には虎口部に石垣が残っている。


歴     史
 若山城は、室町時代に陶弘護によって築かれた。陶氏は、大内氏の庶流で周防国吉敷郡陶を領しことに始まり、南北朝時代に陶弘政が陶村より周防富田に移って居館を構えた。 

 若山城は、文明元年に西軍に与した大内政弘の留守に政弘の叔父大内教幸が東軍細川勝元の誘いに応じて赤間関で挙兵する。文明3年までの内乱時期に陶弘護が東軍教幸方に備えて若山城を築いた。(諸説あり)

 天文19年、陶隆房(晴賢)は主君大内義隆に謀反を企て、所領富田に戻り若山城を修築した。翌20年、若山城から山口へと出陣して大内義隆を攻め、義隆を長門の深川大寧寺で自刃させた。

 大内氏の実権を掌握した晴賢は、弘治元年の毛利元就を討つべく安芸へ出陣したが、安芸巌島の合戦にて敗死した。若山城には嫡男長房がいたが、杉重輔に攻められ自刃して陶氏は滅亡した。


お城へのアクセス
鉄 道: JR山陽本線福川駅〜タクシー約15分
 車 : 山陽道徳山西IC〜国道2号線〜市道
駐車場: 若山城の無料駐車場を利用。


ひとくち MEMO
「厳島の合戦」のもう一人立役者陶晴賢の居城。
  • 若山城の縄張図(現地案内板より)
  • 若山城の登城口
    徳山西ICから国道2号線を徳山市街方面に約3km進むと山陽道の下を通過する。通過するとY字型の交差点(信号あり)を左側の本線を進み、一つめの信号手前に左手に入る市道がある。ここが若山城への登城口。(入り口に若山城登山道の看板がある)

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