安芸 猿掛城



お城のデータ
所在地 広島県安芸高田市吉田町多治比
遺 構 曲輪、土塁、堀切
形 式 山城 築城者: 毛利弘元 築城年代: 明応年間


見 ど こ ろ
 多治比の猿掛城は、毛利元就が青少年期を過ごした城として有名だ。猿掛山の山腹には、毛利弘元夫婦、御杉の方の墓や、弘元の菩提寺の教善寺がある。

 猿掛城は、中世国人層の典型的な山城と云えるだろう。山頂部に物見櫓台のある本丸を中心にを曲輪群を置き、背後の尾根筋には深さ7〜8mもあろう2筋の堀切によって固められている。さらに尾根筋山頂部には物見曲輪が置かれている。

 教善寺背後の山腹には、寺屋敷と呼ばれる曲輪があり、本丸曲輪群とは幅5〜6m程の広い竪堀によって遮断されていた。

 現在、教善寺のある場所も曲輪の一つであるが、谷を挟んだ西側に比高50m程の独立丘陵上に出丸がある。

 この出丸は、猿掛城の居館的要素を持つ曲輪群で、3段の曲輪が輪郭式に配置されいて、しかも綺麗に下草も刈られ整備されて、山頂部の曲輪群より出丸の方が見応えがある。この出丸が当初の猿掛城で、その後山腹・山頂部分の曲輪群が築城されたと考えられている。


歴     史
 猿掛城の築城年代は定かではないが、明応年間に毛利弘元によって築かれたとも云われている。明応9年、毛利弘元は嫡子興元に吉田郡山城を譲り、猿掛城に隠居した。永正3年に弘元が没し、多治比領と猿掛城は、弘元の次男元就が相続した。

 大永3年、元就が毛利宗家を相続して吉田郡山城に移った。以後、猿掛城の歴史については詳細は伝わっていないが、石見路の要所に位置していることから、城として維持されていたと推定できる。


お城へのアクセス
鉄 道: JR芸備線吉田口駅、JR山陽本線広島駅〜バス/吉田町役場前〜バス/多治比局前
 車 : 中国道高田IC〜県道6号線
駐車場: 教善寺前の公園無料車場を利用。


ひとくち MEMO
毛利元就が青少年期を過ごした城

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