近江 和田城


お城のデータ
所在地 滋賀県甲賀市甲賀町和田字柞ヶ谷
遺 構 曲輪、土塁、空堀
形 式 丘城 築城者: 和田惟政 築城年代: 不明


見 ど こ ろ
 和田谷の中央を流れる和田川に沿って北から右岸に高殿城・公方屋敷・和田城、左岸に公方屋敷支城・和田支城V和田支城U和田支城Tが並び、和田谷全体が集合体として大きな城であったと云え、その中で和田城は、支城群に守られた一番奥に位置している。

 城の縄張りは、丘陵の二つのピークを内、北側のピークに方形の土塁で囲んだ主郭を置き、西側に堀切を隔て二の曲輪を、更に丘陵鞍部を箱堀とも云えるに曲輪に仕立て、南側のピークの曲輪との間をで仕切りている。主郭の西と北側にも比較的広い腰曲輪配している。

 主郭部は、約50m四方の方形で西側は下の曲輪との高低差約5〜6m程ある土塁がある。南西隅に虎口が設けられ、また北西隅には「天守台」との云われている櫓台がある。主郭北側には高さは約1mの土塁が残り埋門形式の虎口があった。  


歴     史
 和田城の築城年代は定かではないが、源満政を祖とする和田惟政がこの城を築いたと考えられている。永禄8年、奈良興福寺一乗院を逃れた足利義昭は、和田惟政を頼り、和田城へと入る。 

 永禄11年、和田惟政は義昭庇護の功によって摂津芥川城主となった。天正元年、足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた時、最初信長に従っていた惟政は、のち義昭に属して摂津高槻城に籠もる。しかし、信長に攻められ、中川清秀に捕らえられ斬られた。  


お城へのアクセス
鉄 道: JR草津線油日駅〜徒歩約20分
 車 : 新名神甲南IC〜県道道4号線/油日〜県道51号線
駐車場: なし。


ひとくち MEMO
足利義昭をかくまった和田惟政の居城。

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