筑後 柳川城


お城のデータ
所在地 福岡県柳川市本城町
遺 構 天守台、石垣、堀
形 式 平城 築城者: 蒲池治久 築城年代: 文亀年間


見 ど こ ろ
 明治の廃藩になるまで、五層の天守閣があった柳川城であるが、今は高城中学校グランドの片隅に石垣を取りは外された天守台が残っていた。城の遺構は、たったこれだけしか残ってないが、むしろ柳川の街全体がお城 の遺構なのかも知れない。

 水郷柳川観光のメイン「どんご舟」に乗っての川下り。街の中を縦横に掘られた掘り割りは、横矢掛かりを意識した鍵形に折れ曲がっている。柳川駅近くの堀に水門がある。この付近は城内側が駅側よりも一段高くなっており、この水門に分厚い板をはめれば、周囲は水浸しになる、城方による逆水攻め仕掛けとか。


歴     史
 柳川城は、文亀年間に蒲池城主蒲池治久によって築かれ、孫の鑑盛によって改築拡張されて、蒲池氏の本城となった。蒲池鑑盛は、天正六年に日向耳川の合戦で討ち死にし、跡を継いだ鎮並も天正九年に龍造寺隆信によって謀殺され、蒲池氏は滅亡した。

 天正15年、豊臣秀吉の九州征伐後、筑前立花城主立花宗茂が13万石で入封する。宗茂は、関ヶ原では西軍に付いたため改易となった。

 立花氏に替わって三河岡崎から田中吉政が325,000石を領し、柳川城を本城とした。吉政は、柳川城を本城にふさわしい城へと修築し、同時に支城として久留米城筑後福島城の修築も行った。

 元和6年に2代田中忠政が死去した際、田中氏は無嗣により改易されると、立花宗茂が磐城棚倉(赤館)より12万石で入り旧領を回復した。以後、立花氏12代の居城として明治に至った。


お城へのアクセス
鉄 道: 西鉄大牟田線柳川駅〜バス/本城町
 車 : 九州道八女IC〜国道442号線/八丁牟田〜県道23号線
駐車場: なし。


ひとくち MEMO
水郷柳川「どんご舟」に乗っての川下りしながらのお城探索。

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