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| ( 三の曲輪の土塁 ) |
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| ( 三の曲輪南側の大堀切 ) |
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| ( 出曲輪の畝状竪堀 ) |
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| ( 出曲輪南側の堀切 ) |
菩提山城は、築城年代は定かではないが岩手氏によって築かれた。天文13年に美濃守護土岐頼芸が岩手四郎宛に宛てた書状で近江の六角・浅井氏に備えて菩提山城の守りを固めるように要請していることから、この頃には既に菩提山城が築城されていることがわかる。岩手氏は、漆原に居館を構えて菩提山城を詰の城として築いたと考えられている。美濃守護土岐氏・斎藤氏に仕えていた。
永禄元年、美濃揖斐郡の大御堂城主竹中重元が岩手漆原の岩手信冬(弾正)を追放し、この地を中心に6,000貫文の領主となった。重元は、翌年に菩提山城を再構築し、麓の西福村(八幡神社北側の集落)に居館を構えた。竹中氏は岩手氏の分流とも云われ、岩手重久の子重氏が竹中氏を称し、重氏の子重元が斎藤道三より大野郡公郷を与えられ大御堂城主となっている。
永禄5年に竹中重元が没してその子重治が城主となる。この重治が羽柴秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛である。重治は、永禄7年に主君斎藤龍興を舅安藤守就と共に居城稲葉山城を奪う。半年後には主君斎藤龍興に稲葉城を返還し、近江小谷城主浅井長政の食客となる。翌8年には岩手に戻り粟原山に閑居する。
永禄10年に織田信長が稲葉城を攻めて、城主斎藤龍興を伊勢へと敗走させて美濃を手中に収める。竹中半兵衛の信長への帰属時期は定かでないが、斎藤氏滅亡後は信長に仕え、木下秀吉の与力に付けられている。
重治は秀吉の軍師として各地を転戦したが、天正7年に播磨三木城攻めの陣中にて病没した。重治没後、嫡男重門は幼く秀吉の元にて養育され、菩提山城は一族竹中重利が守っていた。その後、成長した重門は岩手に戻り、文禄・慶長年間に菩提山城を廃し、麓に岩手陣屋を築いて居を移した。 |