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( 名勝に指定された庭園 ) |
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( 薬研堀と土塀 ) |
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( 下館から見る観音山の傘松城 ) |
江馬氏下館、築城年代や築城者については定かでないが、吉城郡高原郷を領して北飛騨を支配した江馬氏が本拠とした。江馬氏の自出は、鎌倉北条氏の一族とも云われているが詳細なことは分からないのが現状のようだ。
南北朝時代の暦応5年に天龍寺造営の儀礼で江馬左近将監忠継が将軍警護を行う役目の小侍所の武士として飛騨国守護と京極高氏の馬を引いたとの記録がある。
戦国時代の江馬氏は時経−時盛−輝盛の3代が該当し、北飛騨に勢力を誇り姉小路氏や南飛騨の三木氏と飛騨の覇権を争った。しかし、江馬氏も姉小路氏・三木氏も隣国の武田氏と上杉氏と二大勢力の狭間で揺れ動く小さな勢力でしかなかった。
永禄7年に武田氏に与した江馬時盛の先導で武田勢を飛騨へと侵攻する。上杉方に与していた江馬輝盛・三木良頼は時盛と対立し形勢不利となったが、同年越後の上杉謙信が信濃川中島へと出陣して武田信玄と対峙した第五次川中島の戦いとなる。このため武田勢は飛騨から撤退せざるを得なくなり、江馬時盛は降伏して江馬輝盛が家督を継いだ。
天正10年、江馬輝盛は三木自綱と飛騨の覇権を争い八日町の合戦で敗死し、江馬氏の本城である高原諏訪城も三木方の小島時光によって落城する。北飛騨に勢力を誇った江馬氏も没落し歴史から姿を消した。 |