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( 4号堀切 ) |
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( 5号堀切 ) |
舟ヶ谷城は、新野川と篠ヶ谷川に挟まれた牧之原台地から新野地区へ伸びる細長い丘陵の先端部を利用して築かれている。同じ丘陵の中央部には新野古城とも呼ばれる八幡平城があり、舟ヶ谷城は新野新城とも呼ばれている。
篠ヶ谷地区北側の農道を登ると「舟ヶ谷城」の大きな看板が目に入る。ここに縄張図付の案内板が立ってられていて、この背後から尾根筋を登る。
舟ヶ谷城の縄張りは、南北に連なる尾根のピークにの主郭を置き、南側の尾根に二の曲輪、北側の尾根に北の曲輪を配した縄張りとなっていた。ただ、残念なことに主郭部分が土取のため消滅している。
しかし、南の登り口から続く尾根筋から北の曲輪までの間には、1号堀切〜7号堀切まで番号が振られた堀切があり、埋まり浅くなった7号堀切以外の堀切は、どれも深く尾根を掘り込んだ見応えのある遺構だ。
また、主郭西側には主郭取り囲むように横堀の遺構も良く残っていて、主要な曲輪を横堀で囲むように構築し、尾根筋には幾筋もの堀切で遮断線を作る縄張りは八幡平城と共通しており、新野氏の構築よりも高天神城の攻防戦で武田氏による修築された遺構と考えられているようだ。 |