遠江 舟ヶ谷城


お城のデータ
所在地 静岡県御前崎市新野字篠ヶ谷
遺 構 曲輪、土塁、堀切、横堀
形 式 山城 築城者: 新野氏 築城年代: 室町時代


見 ど こ ろ
( 4号堀切 )
( 5号堀切 )
 舟ヶ谷城は、新野川と篠ヶ谷川に挟まれた牧之原台地から新野地区へ伸びる細長い丘陵の先端部を利用して築かれている。同じ丘陵の中央部には新野古城とも呼ばれる八幡平城があり、舟ヶ谷城は新野新城とも呼ばれている。

 篠ヶ谷地区北側の農道を登ると「舟ヶ谷城」の大きな看板が目に入る。ここに縄張図付の案内板が立ってられていて、この背後から尾根筋を登る。

 舟ヶ谷城の縄張りは、南北に連なる尾根のピークにの主郭を置き、南側の尾根に二の曲輪、北側の尾根に北の曲輪を配した縄張りとなっていた。ただ、残念なことに主郭部分が土取のため消滅している。

 しかし、南の登り口から続く尾根筋から北の曲輪までの間には、1号堀切〜7号堀切まで番号が振られた堀切があり、埋まり浅くなった7号堀切以外の堀切は、どれも深く尾根を掘り込んだ見応えのある遺構だ。

 また、主郭西側には主郭取り囲むように横堀の遺構も良く残っていて、主要な曲輪を横堀で囲むように構築し、尾根筋には幾筋もの堀切で遮断線を作る縄張りは八幡平城と共通しており、新野氏の構築よりも高天神城の攻防戦で武田氏による修築された遺構と考えられているようだ。


歴     史
( 2号横堀と土塁 )
 舟ヶ谷城は、室町時代中期に新野氏によって築かれたと伝えられている。 新野氏は、今川国氏の孫国俊が新野氏を称した。応仁の乱では東軍細川方の武将の中に今川氏一族と共に新野氏の名前が見え、文明8年の今川義忠の家督問題でも今川氏重臣として新野氏の名が見出される。

 永禄7年、今川氏真の命により新野親矩は、井伊家老臣中野直由と共に今川氏に叛いて徳川家康に通じた曳馬城主飯尾連龍を攻めたが、戦いに敗れ討死した。  


お城へのアクセス
鉄 道: JR東海道本線菊川駅〜バス/新野
 車 : 東名菊川IC〜県道37号線
駐車場: なし


ひとくち MEMO
主郭は消滅していても尾根筋に連なる堀切が見事なお城。

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