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( 本丸北側の虎口と土塁 ) |
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( 本丸北側の土塁と横堀 ) |
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( 御殿南側に残る水堀 ) |
松岡城は、龍子山城とも呼ばれて応永27年頃に大塚郷の地頭となった大塚氏によって築かれたとされている(高萩市史)が、大塚氏以前にも鎌倉から南北朝時代・室町時代に平氏・天楠氏・植田氏などが居城していたとの説もあり、この城が誰が築城したかは定かでない。
大塚氏は、慶長元年に佐竹・岩城氏の支城再編成により陸奥折木城へと移り、松岡城は佐竹義宣の家臣植田城主梶山美濃守が預かった。慶長7年に佐竹義宣が出羽久保田へと移封となる。
慶長7年に出羽角館より戸沢政盛が常陸多賀・茨城郡内で4万石を領して入封した。政盛は、慶長11年までに城を近世城郭へと改修し城下町を整備し、城の名称も龍子山城から松岡城へと改称した。
元和8年に戸沢政盛は出羽新庄へと転封してすると、松岡城は水戸徳川家の所領となり、付家老中山信吉に預けられた。正保3年、2代中山信政が松岡城主となり20,000石を領した
付家老中山氏は、宝永4年に6代信敏が久慈郡太田へ所領替えとなり、加増されて25,000石を領した。10代信敬(水戸藩主5代徳川宗翰の九男)は、享和3年に再び所領替えで松岡へ戻った。慶応4年、14代信徴が明治新政府の特旨により他の御三家付家老と共に独立した大名に列した。 |