上野 岩櫃城


お城のデータ
所在地 群馬県吾妻郡東吾妻町原町字平沢
遺 構 曲輪、土塁、堀切、竪堀
形 式 山城 築城者: 斎藤憲行 築城年代: 応永12年


見 ど こ ろ
 岩櫃城は、吾妻川左岸に岩山が聳える岩櫃山の東中腹に築かれ、背後は岩山の要害であるため、本丸背後の構築物による防御はあまり配慮されていない。

 一段高く物見台と土塁を伴う本丸を中心にして尾根上に二の丸・中の城、駐車場の東側にある出城「天狗の丸」、平沢の集落(この集落にかつては根小屋が築かれていたのではないだろうか?と一人思う)を挟んで北東部の丘陵上に支城柳沢城を配した縄張りで、かつ尾根の両サイドの斜面も幾段にも策平した段曲輪が並ぶ、大規模な山城だ。

 城跡は、本丸を中心に公園化されているが、本丸以外の曲輪は、雑木の覆われているが、本丸から中の城一帯にには土塁や空堀・竪堀の遺構が良好な形で残され、この城の堅固さを肌身で感じることができる。


歴     史
 岩櫃城は、応永12年に斎藤憲行によって築かれた。斎藤氏の自出は諸説がありはっきりしないが、憲行以後吾妻各地に一族を配して勢力を誇った。

 戦国時代、斎藤憲広は上杉氏に属していたが、永禄6年武田信玄が真田幸隆に命じて岩櫃城を攻め落とさせて幸隆を城主とした。その後、斎藤憲広の嫡男憲宗は岩櫃城奪還を試みるが、永禄8年に真田幸隆に攻められ嶽山城にて自刃して斎藤氏は滅亡する。

 幸隆−信綱−昌幸と真田氏が居城し、吾妻から沼田へと進出して、武田氏の上野侵攻の一翼を担った。天正10年、真田昌幸が信長に甲斐新府城を追われた主君武田勝頼をこの岩櫃城へ迎えようとしたことは有名な話。武田氏滅亡後も岩櫃城は、天正11年に真田昌幸が信濃上田城へ居城を移すが、真田氏にとって沼田城共に領国支配の要の城であった。


お城へのアクセス
鉄 道: JR吾妻線群馬原町駅〜タクシー/平沢(岩櫃城駐車場)
 車 : 関越道渋川伊香保IC〜国道17号線〜国道353号線
駐車場: 岩櫃城の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
戦国時代の知将真田三代の居城。

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