沼田城は、天文年間に沼田顕泰によって築かれた。上杉・北条・武田氏による争奪が繰り返され、その渦中で沼田氏は滅亡する。天正7年、武田方の真田昌幸が沼田城を攻め取り、以後沼田城を巡って真田氏と北条氏が攻防を繰り返した。
天正16年、秀吉の調停により沼田城は北条氏に引き渡され、猪俣邦憲が城代となった。天正17年に真田氏領の名胡桃城を猪俣邦憲が奪い取ったことが、小田原征伐の口実となった。
天正18年、北条氏滅亡に後沼田城は再び真田昌幸の持城となり、嫡男信幸が沼田に入った。信幸は、五層の天守を築くなど近世城郭へと改築した。慶長5年、関ヶ原の役では信幸は父昌幸と別れ家康方に与した。
戦後、父昌幸の所領も与えられ、信濃上田・上野沼田合わせて13万石を領して居城を上田へ移し、沼田には嫡男信吉が城主として入った。その後、天和元年、真田信利(信幸の孫)は領国政事不行届きを理由に改易され沼田城は破城された。
幕府天領を経て、本多正永が2万石を領して入封して城を再築したが、真田時代に比べ小規模な城となった。本多−天領−黒田氏と城主が替わり、寛保2年に黒田氏が上総久留里へと移ると駿河田中から土岐頼稔が入り、35,000石を領して12代頼知の時に明治を迎えた。 |