肥後 河内浦城


お城のデータ
所在地 熊本県天草市河浦町河浦字湯立免
遺 構 曲輪、堀切、竪堀
形 式 丘城 築城者: 天草氏 築城年代: 不明


見 ど こ ろ
( 主郭背後の堀切 )
( 復元整備された主郭 )
 天草氏の本城、河内浦城は一町田川が羊角湾に注ぐ河口近く、北から一町田川に向けて突き出した半島状の丘陵先端部を利用して築かれている。丁度、崇圓時背後の丘陵が河内浦城で、一町田川を挟んだ東側にある城山には支城の下田城がある。

 河内浦城の縄張りは、丘陵先端部の最高所に南北約60m×東西約18m(狭いところで約10m)の主郭を置き、堀切を隔てて北側に二の曲輪を配し、堀切付近から主郭南下まで西側に帯曲輪が設けられている。更に、崇圓寺境内となっている一帯は城主居館が置かれた曲輪で、ここに廃城後に郡代所が置かれた。

 発掘調査によって、主郭の内には両側に設けられた柵列や建物の跡が出土し、帯曲輪からは横堀跡も出土している。調査結果に基づいて現在は城趾公園として整備され、遺構明示され復元建物のような四阿が建てられている。 


歴     史
( 主郭南側の切岸と帯曲輪 )
( 二の曲輪の切岸と帯曲輪 )
( 郡代所跡に創建された崇圓寺 )
 河内浦城は、築城年代は定かでないが天草氏によって築かれた。天草氏は、鎮西の大族大蔵氏の一族で、鎌倉時代に本砥島(現在の本渡周辺)の地頭職を得て天草氏を称した。しかし、天草氏は正和2年に志岐景広に本渡領を併呑され、以後河内浦を本拠とする庶流の河内浦家が天草惣領家となっている。

 戦国時代になり、天文元年に天草尚種が志岐・栖本・大矢野・長嶋氏と連合して上津浦治種を攻めるなど、天草五人衆間のでの抗争が続く。この尚種の代に失った本渡領を回復したとされる。

 永禄12年、天草鎮尚が南蛮貿易の利益享受を求めてキリスト教布教を認め、天正10年に鎮尚の跡を継いだ久種もまた洗礼を受けている。

 天正15年、秀吉より本領安堵された久種は、天正17年に志岐鎮経ら天草五人衆と共に小西行長の宇土城築城の手伝いを拒んで起こした天正天草の合戦で小西勢と援軍の加藤清正に本渡城を落とされ、小西行長に降伏してその家臣に組み込まれた。

 慶長5年、天草久種は小西行長に従い関ヶ原へ出陣したが、西軍は敗れ主家小西行長は改易となる。久種は天草を去り、関ヶ原の戦功により備前岡山城主となった小早川秀秋に仕え、久種の弟種倫・種真の二人は加藤清正に仕えた。

 慶長6年に天草は肥前唐津の寺沢広高の所領となり、河内浦城は並河宗政が元和元年の一国一城令で廃城となるまで城代を務めている。廃城後は居館跡に河内浦郡代所が置かれたが、天領となった寛永18年に代官鈴木重成によって郡代所も廃止された。


お城へのアクセス
鉄 道: 熊本桜町BT〜本渡BT〜バス/一町田橋
 車 : 九州道松橋IC〜国道266号線〜国道389号線〜県道35号線
駐車場: 天草市総合交流施設「愛夢里」の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
天草下島の中・南部を領した天草五人衆の筆頭天草氏の本城。

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