肥後 本渡城


お城のデータ
所在地 熊本県天草市本渡町本戸馬場
遺 構 曲輪、堀切
形 式 山城 築城者: 天草尚種 築城年代: 永禄年間


見 ど こ ろ
( 城山公園/殉教公園 )
 本渡城は、本渡市街地西側に位置する丘陵先端部を利用して築かれている。現在の城山公園(殉教公園)と天草キリシタン館の敷地となっている一帯に築かれていた。寺沢氏時代の郡代官所跡でもある明徳寺境内、その背後の丘陵高尾山・権現山も含めて広義の城域としている。

 キリシタン館が建つ一帯が主郭、城山公園が二の曲輪であった。城山公園内には城石碑と説明板があり、今回はキリシタン館は休館日で入ることが出来なかったが以前訪れた時には資料館の裏手に本戸城址の碑と木山弾正(天正天草合戦で加藤清正と一騎打ちをした客将)祀った小さな社があった。


歴     史
( 天草キリシタン館 )
( 明徳寺 寺沢時代の郡代官所跡 )
 本渡城は、築城年代は定かでないが天草氏によって築かれた。天草氏は、原田氏一族天草種有が、天草下島河津浦の地頭に任じられたのに始まる。戦国時代の天正年間に天草鎮尚・久種父子は天草五人衆に数えられ、河内浦城を居城に天草中央から南部を支配し、本渡城は本城に次ぐ天草氏の拠点で一族天草種元が城主となっている。

 天正15年、天草久種は豊臣秀吉の九州征伐では本領を安堵された。しかし、天正17年に小西行長の与力となった天草五人衆は、行長の宇土城普請手伝いを拒否したことから天正天草合戦となり、本渡城は行長と加藤清正によって攻められ城主天草種元も討死して落城した。本渡城落城をみた天草久種は小西行長に降伏して家臣に組み込まれた。

 慶長5年に小西行長が関ヶ原で敗れ改易となると、天草は唐津城主寺沢広高の所領となり、寛永14年に島原・天草の乱が起きると一揆勢に攻められ、代官三宅重利も討死にして唐津勢は富岡城へと敗走した。


お城へのアクセス
鉄 道: 熊本桜町BT〜本渡BT〜バス/船の尾
 車 : 九州道松橋IC〜国道266号線〜国道324号線〜県道44号線
駐車場: 城山公園(殉教公園)の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
切支丹殉教公園になっていてるお城。

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