肥後 富岡城


お城のデータ
所在地 熊本県天草郡苓北町富岡
遺 構 曲輪、石垣、土塁、竪堀、
形 式 山城 築城者: 寺沢広高 築城年代: 慶長7年


見 ど こ ろ
( 東虎口から見る本丸南東隅櫓 )
( 帯曲輪から見る二の丸長櫓 )
( 東虎口の枡形 )
 ( 二の丸東隅櫓 )
 富岡城は、砂州で繋がった典型的な陸繋島の袋浦を見下ろす城山山頂部に築かれている。最高所に本丸を置き、連郭式に二の丸・ 出丸を並べ、山麓に三の丸を配置した縄張りとなっている。

 島原・天草の乱で砂嘴から上陸した一揆勢は城山背後へと回り込み攻めた。この戦で富岡城の弱点が露見したため、山崎家治による改修時にこの方面への防御も強化されたようだ。砂州を堀切って設けられた堀切と大手門、百間土手(石垣造り)、寺沢時代の大手門を百間土手東詰に新たに内桝形虎口を設け追手門を設けたのも防御強化の一つ。

 以前に訪れた時、山頂部では発掘調査に基づいて本丸の石垣が完全に復元され、二の丸が石垣が復元工事中であった。真新しい石材も多数積まれた石垣は、「城の築城されたばかりの状態とはこのようなものだったのだ」と妙に納得させられた。

 20数年の月日を経て再訪した富岡城は、以前に見た本丸の塁上には、北櫓・西櫓と城門、更に一段下に南東隅櫓が復元され、二の丸には苓北町歴史博物館となっている長櫓の他に東隅櫓・西隅櫓も復元されていた。また、以前訪れた時には分からなかったが、二の丸西側の虎口側(丁度本丸北櫓の下辺り)に竪堀の遺構も見ることができた。

 これらの復元工事に伴う発掘調査で、二の丸西側の石垣は三重の石垣が築かれていることが判明してる。一番奥が寺沢時代の石垣、その外側に山崎氏が築いた石垣、二回目の石垣を再度修復した石垣となっているとか。

 富岡城の復元は山頂部の本丸・二の丸に留まらず、富岡港船客待合所の直ぐ側にある大手門跡も富岡町農協施設の建設で消滅していた枡形東側の石垣と堀切の一部も復元され、大手枡形の姿が蘇っていた。


歴     史
( 大手門枡形西面の石垣 )
( 百間土手の石垣と城壁 )
( 追手門南側の石垣 )
 富岡城は、慶長7年に寺沢広高によって築かれた。慶長5年、関ヶ原で西軍に与した肥後宇土城主小西行長は改易され、天草領42,000石は肥前唐津城主寺沢広高に与えられた。広高は飛地領となった天草を支配するため、唐津から最も近く船の発着にも便利な袋浦に新城を築いた。

 寛永14年、島原の乱が起きると一揆軍は天草上島の島子で唐津勢を破り、本渡の瀬戸を渡って富岡城を包囲した。唐津勢は、富岡城城代三宅重利は本渡の戦いで討死したため、代わって原田嘉種が指揮して富岡城を守り抜いた。

 寛永15年、島原の乱が鎮圧されると寺沢堅高はその責任を問われ、島原城主松倉勝家と共に改易となり、島原は高力忠房に、天草は山崎家治に与えられた。寺沢氏に替わって備中成羽より4万石で富岡に入封すした家治は、三の丸の増築、井戸の増設、袋浦に百間土手の構築など城の大規模な改修を行った。しかし、家治は僅か3年で讃岐丸亀に転封になり、この地は天領となった。

 寛永18年、天領となった天草に代官鈴木重成が赴任する。重成と養子重辰二代に亘って代官を務めるが、この在任中に天草全島の再検地を行い、天草の禄高を従来の半分21,000石が実態に即した石高と幕府に上申し、万治2年に幕府は石高の半減を認めた。

 寛文4年、戸田忠昌が三河田原から21,000石で入封する。忠昌は、山上の本丸・二の丸を破却して、三の丸に陣屋を構えた。寛文11年、忠昌は「天草は永久に天領たるべき地」と建議して、常陸下館へと領地替えとなった。以後、忠昌の建議通り明治まで天草は天領となった。


お城へのアクセス
鉄 道: 熊本桜町BT〜本渡BT〜バス/富岡港
 車 : 九州道松橋IC〜国道266号線〜国道324号線
駐車場: 麓と二の丸下にある無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
江戸時代の絵図を基にした発掘調査の結果、見事に石垣が復元されたお城。

熊本県のお城一覧表へ トップページへ 苓北町のHPへ

九州のお城
| 福岡県佐賀県長崎県大分県熊本県宮崎県鹿児島県沖縄県