肥前 玖島城


お城のデータ
所在地 長崎県大村市玖島1丁目大村公園
遺 構 模擬櫓、石垣、土塁、堀、船倉、曲輪
形 式 平城 築城者: 大村喜前 築城年代: 慶長3年


見 ど こ ろ
( 大手門の石垣と長堀 )
( 大手門脇の穴門 )
( 枡形門の石垣と城壁 )
( 本丸台所口門 )
 玖島城は、大村湾に突き出した半島基部を利用して築かれている。大村喜前が朝鮮出兵時の経験から、三方が海に面した要害の地が最も防御力が高いとの判断から玖島に築城された。

 玖島城の縄張りは、半島基部の最高所に本丸を置き、本丸の東から馬場曲輪・二の丸・南曲輪が取り囲んでいる。更に、空堀を隔てて西側に三の丸が配置されている。

 半島基部の東端には桜田の堀、南側に東から南には長堀・南堀が構築され、ここに土橋が掛けられ内桝形の大手門が開かれている。大手門枡形内に穴門と呼ばれる石の門がある。なぜここに埋門形式の門が必要であっただろうか。

 この大手門左手に玖島城のシンボルとなっている二層の板敷櫓が平成4年に建てられた。板敷櫓は扇の勾の見事な高石垣の塁上に建ち、大手門方面への押さえの櫓となっている。 もっとも江戸時代の絵図では櫓台としか記載なく、どうやらここに櫓は建てられていなかったらしい。

 大手門を経て二の丸・本丸へ。このルート直線的には非常に短い。この弱点を補うためか、枡形虎口が3ヶ所連続している。現在の本丸は大村神社の境内となっているが、虎口門・台所口門・搦手門と3ヶ所の虎口が健在であり、見応えのある遺構であった。

 本丸北側の帯曲輪と続くイロハ坂詰め櫓門付近の石垣は、大手門〜本丸へ至るルートに築かれた石垣と比べて積み方が異なり、築城当時の石垣であろうと考えらている。
 
 また、二の丸西側にある二度折れ曲がった空堀・大村湾に面してある御船蔵の遺構・新蔵波戸の遺構は、お城めぐりファンにとって見逃すことなかれ。


歴     史
( 本丸搦手門 )
( イロハ坂詰櫓門 )
( 大村藩船蔵跡 )
 大村氏は、藤原純友を祖と称する鎌倉時代からの地頭・在地領主で、南北朝時代から戦国時代には国人領主として活動していた。

 天文19年、肥前日野之江城主有馬晴純の次男純忠が、叔父大村純前の養子となり家督を相続する。大村純忠は永禄7年に三城城を築いて居城とし、大村氏の版図は大村の地を中心として彼杵郡一帯に勢力拡大して戦国大名となっている。大村純忠は日本最初のキリシタン大名として有名であるが、信仰とは別に南蛮貿易による富が目的でもあった。
 
 その後、純忠は龍造寺氏による圧迫により従属することになり、龍造寺隆信が討死した天正12年の沖田畷の合戦には龍造寺方として出陣している。

 天正15年に純忠は坂口館で没し、家督は嫡男喜前が嗣ぐ。同年の豊臣秀吉の九州征伐にも参陣して本領を安堵された。慶長3年、喜前は関ヶ原の戦を前の政局不安に備え、より堅固な新城を玖島に築城したが、その後も改修が行われ喜前の子純頼の代になってようやく完成した。

 キリシタン大名大村氏は、秀吉の圧力により喜前自身も改宗し、一転して教会を焼き払うなどキリシタン弾圧を行っている。その為か、喜前は元和2年に玖島城内で毒殺されたと云われている。大村氏は、何度か無継嗣による断絶の危機も無事乗り越え、27,900石の小藩ながらもこの地を動くことなく12代続いて明治を迎えた。


お城へのアクセス
鉄 道: JR大村線大村駅〜バス/公園入口
 車 : 長崎道大村IC〜国道444号線〜国道34号線
駐車場: 大村公園の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
船蔵の遺構が残るお城。

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