肥前 日野江城


お城のデータ
所在地 長崎県南島原市北有馬町谷川名
遺 構 曲輪、石垣、土塁、石段、土橋、竪堀、堀切
形 式 丘城 築城者: 有馬経澄 築城年代: 建保年間


見 ど こ ろ
( 本丸下段東側の帯曲輪 )
( 本丸中段南下の帯曲輪 )
( 本丸下段南側の切岸と石垣 )
 日野江城は、島原湾に注ぐ有馬川河口に向けて北から半島状に延びる丘陵の先端部を利用して築かれている。

 現在は河口付近には干拓地が広がっているが、往時は日野江城下近くまで海であったようで、かつて大手口前には船着き場があり、この辺りまで入り江になっていたようだ。ここから軍船に乗って有馬氏も朝鮮に出陣したのであろうか。

 日野江城は、丘陵の最高所に本丸曲輪群を置き、東の尾根筋に二の丸曲輪群、西の尾根筋に三の丸曲輪群、北の尾根筋に北の丸曲輪群を配置した縄張りとなっている。

 本丸曲輪群は概ね三段の曲輪からなり長方形をした下段が一番広く、建物の遺構も出土している。上段には日野江神社の社と城石碑があり、中段には説明板が設置され、下段と中段との間にある帯曲輪や下段南側には石垣の遺構が残っていた。

 大手前駐車場から二の丸曲輪群へと大手登城道を登る。大手道側面の石垣は、日野江城独で外来系の技法によって積まれているそうだ。二の丸曲輪群は、概ね四段に分かれ、それぞれの段には石垣の遺構が残る。これらの遺構は、崩れてはいるがなかなかのもの。高いところで3〜4m程あろうか。以前訪れた時、発掘調査中で虎口の石段の遺構も見ることができたが、今は埋め戻されていたのがちょっと残念。 


歴     史
( 二の丸下段虎口付近の石垣 )
( 二の丸上段の石垣 )
( 二の丸上段虎口北側の石垣 )
 ( 本丸帯曲輪から見る三の丸 )
 日野江城は、建保年間に有馬経澄が築いたとされている。藤原純友の後裔と伝えられている経澄が、肥前高来郡有馬荘の地頭職を鎌倉幕府より任じられ有馬氏を称した。

 有馬氏は南北朝時代以後は衰退するが、有馬氏澄の代になって勢力を盛り返し明応年間には有馬氏中興の祖と云われている氏澄の子貴純に至って、島原半島全域(高来郡)から藤津・杵島郡まで氏配下に治め、国人領主から戦国大名へと成長した。

 その後、有馬氏は貴純−純鑑−晴純とその勢力を維持するが、天文21年に家督を晴純の嫡男義貞が継ぐ頃には大友宗麟・龍造寺隆信らの侵攻により、有馬氏の勢力は縮小されていく。

 元亀元年に義貞が隠居して嫡男義純が家督を継ぐが、元亀2年に早世して弟鎮純が幼くして家督を継いだ。鎮純は後に改名して晴信と名乗る。この14代有馬晴信の代になると主龍造寺隆信の攻勢により臣従せざるを得なかった。

 天正12年、有馬晴信が龍造寺隆信から離反する。晴信は、龍造寺隆信の大軍を島津家久率いる島津氏の援軍と共に、島原の沖田畷の合戦で撃ち破った。島津氏の支援により独立を保った晴信であったが、天正15年の豊臣秀吉による九州征伐では島津氏と縁を絶ち、秀吉に与して本領を安堵された。

 慶長5年の関ヶ原では東軍に与して本領安堵となった有馬晴信であったが、慶長17年に海外貿易に関する不始末(岡本大八事件)で改易となり甲斐に流され自害を命じられた。しかし、嫡男直純は改めて日野江4万石を与えられた。

 慶長19年に有馬直純は日向延岡に移封となり、一時幕府領となったが元和2年に大和五條から松倉重政4万石を領して入封する。重政は日野江城・原城とも所領の南に偏っていたこともあり、元和4年に島原城を築城して移り日野江城は廃城となり、石垣などは島原城へと運ばれた。。


お城へのアクセス
鉄 道: 島原鉄道島原駅〜バス/日野江城跡入口
 車 : 長崎道諫早IC〜国道57号線〜県道55号線〜国道251号線〜県道30号線
駐車場: 日野江城の無料駐車場を利用


ひとくち MEMO
島原半島を制したキリシタン大名有馬晴信の居城。
  • 日野江城の縄張図(現地案内板より)
  • 埋め戻される前の二の丸上段虎口の石段(2000年撮影)
       

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